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<<<2016冬、沖縄平和の旅>>>



添乗員さんは明るく元気な
方でした。おかげで楽しい
旅ができました
那覇空港に到着時に記念写真 瀬長亀次郎さんの娘さんに
不屈館の話を聞きました。
瀬長亀次郎さんの部屋展示
現地のガイドさんは沖縄の
歴史や現在の闘いに詳しい
方でした
嘉数(かかず)高台の公園
太平洋戦争末期の沖縄戦において
1945年4月8日(7日)からの16日間
に行われた戦地
陣地壕 トーチカ
展望台 普天間基地(米軍海兵隊基地)
がある宜野湾市全景
沖縄国際大学に米軍大型
ヘリコプターが墜落した
事件の碑(2004年8月13日)
普天間基地騒音訴訟団の事務所
嘉手納基地(米空軍基地)を
間断なく飛び立つ対潜哨戒機
オスプレイの蒲鉾形の倉庫 私たちの頭上を再三飛び交う
ヘリコプターやジェット機
辺野古漁港のそばの辺野古ビーチ
には、隣接するキャンプ・シュワーブ
(米軍海兵隊の実弾射撃訓練地)
との境に張られた有刺鉄線フェンス
フェンスには平和を願う幕がたくさん
張られていました。その前で
記念撮影
宿泊ホテルでの参加者の交流会の
様子
宿泊地のリゾネックス名護を出発
ここから2日目に入ります。
瀬嵩の浜 (せだけのはま)への
入り口
マングローブの林をくぐって
瀬嵩の浜へ
浜は朝日が昇ってきて輝いて
いました。
浜の砂は一面サンゴのかけら
でできています。
辺野古埋め立て工事で、自然が
破壊されるであろう様子を話し
ていただきました。
静かで自然豊かな大浦湾を
バックに記念撮影
警視庁の機動隊が寝泊まりして
いるカヌチャリゾートのカヌチャベイホテル
琉球びんがたを制作している
藤崎紅型工房を見学しました。
作業中の工房の様子
大浦湾の海底探索に使われるグ
ラスボートの船着き場
海底の様子がよく見えました 辺野古の大浦湾の海底でしか見
られないチリビシのアオサンゴ
の切断面
珊瑚礁が青い海底にびっしり命
を育んでいました
サンゴとサンゴが接合していま
した
ボートまでは浮き桟橋でいきま
した。湾の向こう側が辺野古崎
です。
バスで移動し、東村高江のヘリ
パッド基地建設反対現場に行き
ました
日本AALAから檄とカンパが
贈られました
埼玉AALAからも檄とカンパ
が贈られました。
栃木AALAからも檄とカンパ
が贈られました。
テントの反対側には檄や横断幕
がたくさん張られていました。
大宜味村の食堂で長寿弁当を食
べました。いろいろなものが入
っていて大変おいしかったし、
健康に良さそうに思いました。
さすが長寿の村ですね。
長寿弁当食堂のおかみさん 看板が出ていました。意味はわ
かりませんが「まかちぃくみそ
ぅれ」と書いてありました。
お店の入り口 その後、キャンプ・シュワブ辺
野古新基地建設ゲート前のテン
トを訪れました。
米軍の大型重装備車がゲートに
入っていきました。
基地建設反対のテント群 座り込みが始まって551日の
看板がありました。
日本AALAから檄とカンパが
渡されました。
テントの中には、暴力を振るう
機動隊の写真が飾られていまし
た。
機動隊により傷ついた住民の写
真もありました。
国家権力の手先となって暴力を
振るう機動隊員の親たちはどう
いう気持ちでこの写真を見てい
るのでしょうか?
宿泊地のリゾネックス那覇に到
着後、琉球料理の店で夕食を食
べるととともに懇親を深めまし
た。
いろいろな場所を見学した今日
を振り返って話がはずみました。
3日目は宜野湾市での連帯行動
の日です。バスの中が歌声喫茶
のように盛り上がりました。
今日の行動に胸躍る人々です。 シムラ氏の事務所に入りました。
階段には応援旗がたくさん張ら
れていました。
オール沖縄からオール日本へと
安倍政権批判の声は広がってい
きます。
事務所の2階は応援の人で満員
でした。
日本AALAから檄とカンパが
渡されました。
左の方は瀬長亀次郎さんのお孫
さんで、事務局長をされていま
した。立派なおじいさんには立
派な孫が育つのだなあと感心し
ました。(逆も言えますけどね)
電話をかけました。 シムラ事務所はピンクの結構目
立つ事務所でした。
4日目は、自由行動です。宜野
湾市に再度応援に行く人もいま
したが、私はオプションツアー
の沖縄南部見学に参加しました。
案内の人から那覇市の昔の地図
を紹介されました。
首里城の配置図の説明を聞きま
した。
詳しい説明をしてくれたので、
一度行ったことのある首里城で
すが、大変勉強になりました。
守礼門全景
守礼門の上に「守禮之邦」とあ
りました。
園比屋武御獄石門
(そのひゃんうたきいしもん)
園比屋武御獄石門
からのスナップ
観光ルートから外れた日本軍壕跡
その解説碑 円鏡池と弁財天堂 首里城の下に眠る防空壕跡 防空壕跡
道には水が流れる工夫がなされ
ていました。
歓会門(かんかいもん)。中国
皇帝の使者「冊封使(さっぽう
し)」を歓迎する門
瑞泉門。階段の狭くなっている
わけを聞きました。
湧き水が出る「龍樋(りゅうひ)」
瑞泉門のスナップ 時刻を調べた日影台 成人式の男子一群が金ピカの衣
装で奉神門を潜っていました。
約500年の琉球王国の歴史を
感じさせる首里城正殿
1992年に復元されました 北殿は、中国からの使者「冊封
使」が長期滞在した場所です。
南殿は、薩摩藩への接待の場所
でしたが、実際は薩摩藩による
監視と圧政が行われていた場所
でしょう。
正殿の内部です。撮影禁止を知
らずに写してしまいました。御
差床(うさすか、国王が座った
玉座のこと)です。
儀式の様子のミニチュア 名前がわからないが、日影みた
いなものでしょう。
高度に築かれた石垣の接合面 石垣の縁は丸みを帯びて作られ
ていました。
西のアザナ(城郭の西側の展望
台)から見た那覇市内
沖縄は、オキ(大きい)とナハ
(漁場)という言葉からできた
そうです。
糸数アブチラガマ見学(懐中電
灯を気にして、うっかりカメラ
を忘れました)したのち、昼食
に、沖縄そばの店に行きました。
案内の方の説明を聞きながら、
昼食をとりました。
私は甘党なので、お汁粉も食べ
ました。容器が洒落ていました。
庭先に咲くハイビスカス 平和記念公園に到着 各県の氏名が記載されている石
碑の前で、この石碑を建てるこ
とに反対した日本政府の弾圧に
怒りを覚えました。何の反省も
していないのかと。
韓国人慰霊の塔にも行きました。 強制労働を強いられたあげく、
原爆の巻き添えにあって死んだ
人々の恨みの声が聞こえてくる
ようです。
最後の見学地は、ひめゆり平和
記念資料館です。私は職業柄、
女生徒222人を引率して果て
た教師18人の声の紹介展示の
コーナーで立ちすくんでしまい
ました。
ひめゆりの塔
敗色が濃くなってきているのに
もかかわらず、日本本土への米
軍の上陸を遅らせるためと言っ
て、沖縄全土を犠牲にした日本
帝国軍人を許すわけにはいきま
せんが、その事実を明るく語る
ガイドさんには頭が下がる思い
です。
「怒りより笑顔が似合う平和の邦」
充実した日本AALA沖縄平和
の旅は終了しました。
ここで得た思いは、終生持ち続
けましょう。

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