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添乗員さんは明るく元気な
方でした。おかげで楽しい
旅ができました
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那覇空港に到着時に記念写真
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瀬長亀次郎さんの娘さんに
不屈館の話を聞きました。
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瀬長亀次郎さんの部屋展示
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現地のガイドさんは沖縄の
歴史や現在の闘いに詳しい
方でした
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嘉数(かかず)高台の公園
太平洋戦争末期の沖縄戦において
1945年4月8日(7日)からの16日間
に行われた戦地
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陣地壕
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トーチカ
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展望台
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普天間基地(米軍海兵隊基地)
がある宜野湾市全景
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沖縄国際大学に米軍大型
ヘリコプターが墜落した
事件の碑(2004年8月13日)
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普天間基地騒音訴訟団の事務所
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嘉手納基地(米空軍基地)を
間断なく飛び立つ対潜哨戒機
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オスプレイの蒲鉾形の倉庫
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私たちの頭上を再三飛び交う
ヘリコプターやジェット機
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辺野古漁港のそばの辺野古ビーチ
には、隣接するキャンプ・シュワーブ
(米軍海兵隊の実弾射撃訓練地)
との境に張られた有刺鉄線フェンス
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フェンスには平和を願う幕がたくさん
張られていました。その前で
記念撮影
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宿泊ホテルでの参加者の交流会の
様子
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宿泊地のリゾネックス名護を出発
ここから2日目に入ります。
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瀬嵩の浜 (せだけのはま)への
入り口
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マングローブの林をくぐって
瀬嵩の浜へ
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浜は朝日が昇ってきて輝いて
いました。
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浜の砂は一面サンゴのかけら
でできています。
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辺野古埋め立て工事で、自然が
破壊されるであろう様子を話し
ていただきました。
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静かで自然豊かな大浦湾を
バックに記念撮影
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警視庁の機動隊が寝泊まりして
いるカヌチャリゾートのカヌチャベイホテル
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琉球びんがたを制作している
藤崎紅型工房を見学しました。
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作業中の工房の様子
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大浦湾の海底探索に使われるグ
ラスボートの船着き場
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海底の様子がよく見えました
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辺野古の大浦湾の海底でしか見
られないチリビシのアオサンゴ
の切断面
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珊瑚礁が青い海底にびっしり命
を育んでいました
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サンゴとサンゴが接合していま
した
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ボートまでは浮き桟橋でいきま
した。湾の向こう側が辺野古崎
です。
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バスで移動し、東村高江のヘリ
パッド基地建設反対現場に行き
ました
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日本AALAから檄とカンパが
贈られました
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埼玉AALAからも檄とカンパ
が贈られました。
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栃木AALAからも檄とカンパ
が贈られました。
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テントの反対側には檄や横断幕
がたくさん張られていました。
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大宜味村の食堂で長寿弁当を食
べました。いろいろなものが入
っていて大変おいしかったし、
健康に良さそうに思いました。
さすが長寿の村ですね。
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長寿弁当食堂のおかみさん
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看板が出ていました。意味はわ
かりませんが「まかちぃくみそ
ぅれ」と書いてありました。
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お店の入り口
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その後、キャンプ・シュワブ辺
野古新基地建設ゲート前のテン
トを訪れました。
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米軍の大型重装備車がゲートに
入っていきました。
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基地建設反対のテント群
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座り込みが始まって551日の
看板がありました。
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日本AALAから檄とカンパが
渡されました。
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テントの中には、暴力を振るう
機動隊の写真が飾られていまし
た。
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機動隊により傷ついた住民の写
真もありました。
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国家権力の手先となって暴力を
振るう機動隊員の親たちはどう
いう気持ちでこの写真を見てい
るのでしょうか?
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宿泊地のリゾネックス那覇に到
着後、琉球料理の店で夕食を食
べるととともに懇親を深めまし
た。
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いろいろな場所を見学した今日
を振り返って話がはずみました。
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3日目は宜野湾市での連帯行動
の日です。バスの中が歌声喫茶
のように盛り上がりました。
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今日の行動に胸躍る人々です。
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シムラ氏の事務所に入りました。
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階段には応援旗がたくさん張ら
れていました。
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オール沖縄からオール日本へと
安倍政権批判の声は広がってい
きます。
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事務所の2階は応援の人で満員
でした。
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日本AALAから檄とカンパが
渡されました。
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左の方は瀬長亀次郎さんのお孫
さんで、事務局長をされていま
した。立派なおじいさんには立
派な孫が育つのだなあと感心し
ました。(逆も言えますけどね)
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電話をかけました。
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シムラ事務所はピンクの結構目
立つ事務所でした。
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4日目は、自由行動です。宜野
湾市に再度応援に行く人もいま
したが、私はオプションツアー
の沖縄南部見学に参加しました。
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案内の人から那覇市の昔の地図
を紹介されました。
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首里城の配置図の説明を聞きま
した。
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詳しい説明をしてくれたので、
一度行ったことのある首里城で
すが、大変勉強になりました。
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守礼門全景
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守礼門の上に「守禮之邦」とあ
りました。
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園比屋武御獄石門
(そのひゃんうたきいしもん)
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園比屋武御獄石門
からのスナップ
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観光ルートから外れた日本軍壕跡
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その解説碑
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円鏡池と弁財天堂
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首里城の下に眠る防空壕跡
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防空壕跡
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道には水が流れる工夫がなされ
ていました。
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歓会門(かんかいもん)。中国
皇帝の使者「冊封使(さっぽう
し)」を歓迎する門
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瑞泉門。階段の狭くなっている
わけを聞きました。
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湧き水が出る「龍樋(りゅうひ)」
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瑞泉門のスナップ
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時刻を調べた日影台
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成人式の男子一群が金ピカの衣
装で奉神門を潜っていました。
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約500年の琉球王国の歴史を
感じさせる首里城正殿
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1992年に復元されました
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北殿は、中国からの使者「冊封
使」が長期滞在した場所です。
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南殿は、薩摩藩への接待の場所
でしたが、実際は薩摩藩による
監視と圧政が行われていた場所
でしょう。
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正殿の内部です。撮影禁止を知
らずに写してしまいました。御
差床(うさすか、国王が座った
玉座のこと)です。
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儀式の様子のミニチュア
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名前がわからないが、日影みた
いなものでしょう。
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高度に築かれた石垣の接合面
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石垣の縁は丸みを帯びて作られ
ていました。
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西のアザナ(城郭の西側の展望
台)から見た那覇市内
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沖縄は、オキ(大きい)とナハ
(漁場)という言葉からできた
そうです。
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糸数アブチラガマ見学(懐中電
灯を気にして、うっかりカメラ
を忘れました)したのち、昼食
に、沖縄そばの店に行きました。
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案内の方の説明を聞きながら、
昼食をとりました。
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私は甘党なので、お汁粉も食べ
ました。容器が洒落ていました。
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庭先に咲くハイビスカス
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平和記念公園に到着
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各県の氏名が記載されている石
碑の前で、この石碑を建てるこ
とに反対した日本政府の弾圧に
怒りを覚えました。何の反省も
していないのかと。
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韓国人慰霊の塔にも行きました。
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強制労働を強いられたあげく、
原爆の巻き添えにあって死んだ
人々の恨みの声が聞こえてくる
ようです。
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最後の見学地は、ひめゆり平和
記念資料館です。私は職業柄、
女生徒222人を引率して果て
た教師18人の声の紹介展示の
コーナーで立ちすくんでしまい
ました。
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ひめゆりの塔
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敗色が濃くなってきているのに
もかかわらず、日本本土への米
軍の上陸を遅らせるためと言っ
て、沖縄全土を犠牲にした日本
帝国軍人を許すわけにはいきま
せんが、その事実を明るく語る
ガイドさんには頭が下がる思い
です。
「怒りより笑顔が似合う平和の邦」
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充実した日本AALA沖縄平和
の旅は終了しました。
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ここで得た思いは、終生持ち続
けましょう。
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