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<<<2017冬、沖縄平和の旅2>>>



12月9日(土)1日目
米軍基地問題で困惑している沖縄
県民を支援するツアーがこの冬多
数企画されています。埼玉AALA
ではメインの場所はもちろんあま
り知られていない場所の掘り起こ
しをと思い企画をしましたが、残
念ながら10名の参加者でした。
この少なさが説明をたくさん聞け
て最後には感動に変わります。
現地添乗員兼ガイドの横田さんに
は感謝です。
最初に訪れたのが那覇市内の「対
馬丸」記念館です。
昭和19年(1944)、戦争の足
音が身近に近づいてくると、老・
幼・婦女子は県外へ疎開する様指
示されました。
対馬丸は学童集団疎開の子供たち
をたくさんのせて8月21日に那
覇港を出航します。しかし、海は
すでに戦場でした。
対馬丸は翌22日夜10時過ぎ、
米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃
により鹿児島県悪石島付近の海に
沈められてしまいます。
乗船者1788名(船員・兵員含
む)のうち約8割の人々が海底へ
と消えてしまいました。
(写真には後ろの掲示物や窓など
が写り込んでいます。)
乗船した学童834名の中で約8
割の児童たちが犠牲になりまし
た。子どもたちの写真が展示され
ています。犠牲になった数の多さ
に比べて、残された遺品や遺影が
とても少ないですが、犠牲者が生
きた証であるだけでなく大切な家
族やお友達を失った人々との大切
な思い出が詰まった展示室です。
未来へ伝えたい平和への想いとい
うことで漫画本「対馬丸」ができ
ました。悲惨な事件をわかりやす
い絵で説明しているこの本を広く
普及させたいものです。
疎開船対馬丸で犠牲になった子ど
もたちの資料館「対馬丸記念館」
の詳しい説明が書いてあります。
那覇市から宜野湾市に入ると左手
に普天間飛行場が見えてきます。
手前のフェンスのすぐ奥に新しい
フェンスが建てられていました。
その間隔の狭さは道路の拡張とし
か思えません。これで返還したと
言うのでしょうか?
その奥の建物は前回来たときにみ
た建物と違って新しくなっていま
した。普天間飛行場は宜野湾市の
真ん中にあるので事故が多発して
いたということで、アメリカ軍と
日本政府は基地返還の約束があっ
たはずです。それにもかかわらず
新しく建て替えられているとは、
不思議なことです。その気はない
のでしょう。
これら全て日本の思いやり予算
(私たちの税金)で建てられてい
ます。
普天間基地の東端にある民有地
の一部(返還された場所)に佐
喜眞美術館があります。周りを
普天間基地の金網で囲まれてい
ます。
この美術館は丸木位里・丸木俊
共同製作の「沖縄戦の図」が常
設展示されています。撮影不可
だったので写真がありませんが、
解説の方の説明をきくと、沖縄
戦の様子が見事に描かれていて、
戦争の恐ろしさを感じました。
佐喜眞美術館を入ってすぐの廊
下の壁に照屋勇賢さんの作品
「結い、YOU-I」が飾られてい
ました。琉球紅型の着物です
が、拡大してみると、ジェット
機やヘリコプター、パラシュー
トで降りる兵隊などたくさんの
戦争の図形が模様となっていま
した。ぜひ拡大してくる見てく
ださい。
2002年の作品ですが、着物
の裾の方にオスプレイが飛んで
います。
宜野湾市の真ん中にアメリカ軍
海兵隊の普天間飛行場がありま
す。
この美術館の屋上に特別に上が
らせてもらいました。この階段
の先端部分に丸い穴があいてい
て、沖縄慰霊の日6月23日の夕
陽がそこからさしてくるように
作られているそうです。
この屋上から見た普天間基地の
様子です。多くの森に囲まれて
いるこの土地は宜野湾市民の土
地を取り上げて作ったものです。
人々は戦後収容所から帰ってき
たとき、自分の家と土地がなく
なっているのに絶望したが、仕
方なく普天間基地の周辺に家を
建てて住んでいるそうです。
佐喜眞美術館の周りを囲ってい
るアメリカ軍海兵隊の普天間基
地の金網です。金網の内側に沖
縄の人の亀甲墓がいくつか見ら
れました。お墓参りのときは米
軍に許可をもらって入るそうで
す。
この日の夕食は、名護市の名護
曲(なごまがり)という沖縄料
理のレストランで食べました。
居酒屋風のお店だったのでみん
なで楽しく乾杯をしました。こ
こで、自己紹介などもしました。
12月10日(日)2日目
宿泊したホテル「リゾネックス
名護」の部屋のベランダから見
た名護湾の朝
ホテル「リゾネックス名護」の
真下のビーチ
最初の見学地は「大本営直結の
ゲリラ部隊、護郷隊の碑」で
す。名護小学校の校門の横の急
な階段を上がって行くと少年護
郷隊についての碑がありました。
名護にあった県立第三中学校の
鉄血勤皇三中隊(兵隊と同様に
戦闘を行う)から第三遊撃隊
(護郷隊)の一員として北部戦
場のゲリラ戦へと駆り出されて
行きました。「隊員は国頭郡に
在住する17歳18歳の第二国民兵
を防衛召集により充当し、遊撃
戦遂行に必要なる戦技を付与・
・・」(碑文より一部抜粋)、
そして多くが戦死したので「少
年護郷隊」と言われています。
そして、現在の闘い(米軍基地
反対闘争)の最前線の辺野古の
テント村に来ました。テント村
での座り込みは約5000日に
なるということです。非暴力の
粘り強い闘いです。
埼玉AALAから寄せ書き「檄」
を手渡しました。
大学の教育学部のゼミの生徒さ
んたちと一緒になり、テント村
で現地の方から説明を聞きまし
た。大学生たちが熱心に聞いて
いる姿に嬉しくなりました。
テントの横に書いてある「勝つ
方法はあきらめないこと」に胸
を打ちます。拡大して見てくだ
さい。
テント村から少し離れた辺野古
ビーチに向かいました。ビーチ
を横切るようにキャンプシュワ
ーブの金網が張られています。
金網には辺野古闘争を支援して
いる団体の檄布が所狭しに飾ら
れています。拡大して多くの人
の声を感じてください。
「わんさか大浦パーク」という
道の駅のような売店に立ち寄り
ました。日差しが強く暑くなっ
てきたので、みんなはブルーシ
ールアイスクリームを買ってい
ました。
その後、汀間(てぃーま)漁港
でグラスボートに乗船しました。
汀間漁港を出港したグラスボー
トは、大浦湾を南に進み、湾中
央にある珊瑚礁に向かいました。
この珊瑚礁のすぐ西側全体が
「常時立入禁止区域」になって
おり、フロートフェンスで囲ま
れていました。この部分はかな
り深い海になっているので、ア
メリカ軍は「普天間飛行場基地
を辺野古に移設」と言っている
が、どうも実態はここに軍港を
新設することが狙いのようであ
る。
アオサンゴ群落(チリビシ)と
ハマサンゴ群落の透明な海をグ
ラスボートの上から見ることが
できました。このような大規模
な珊瑚礁が基地建設によって消
えて行こうとしているのは許す
ことはできません。今のアメリ
カと安倍政権の自然や文化を蔑
視する政治はいつかしっぺ返し
がくることでしょう。
汀間漁港岸壁で、若いグラスボ
ートの船長さんと旅行団の団長
さんを撮影しました。私はこの
グラスボートの前方に座ってい
たので、潜水夫のような黒い頭
と体が見えてすぐ消えていった
のを見たのですが、写真を撮り
そびれてしまいました。
ジュゴンかなと思いましたが、
同じく見た人の話では、大きな
ウミガメだったと言っていまし
た。大自然の海を感じました。
長寿の村「大宜味村」の道の駅
で昼食をとりました。
パイナップルが売っていたの
で、食べたいといったら、切っ
てくれたので、美味しくみんな
でいただきました。
お土産に「ゆず昆布 味きらり」
をたくさん買いました。
道の駅に隣接して「ふるさと食
堂(農山漁村食堂)」がありま
す。シークワーサー入りのさっ
ぱりしたお水が出たのにはビッ
クリです。ここで、長寿の食事
「味噌汁定食」を食べました。
普通の定食についてくる「みそ
汁」ではなく、「みそ汁」がメ
インです。店によって違いがあ
るそうですが、この店では大き
な丼に、島豆腐4つ、豚肉、上
に卵、野菜は少な目でした。ボ
リュームたっぷり栄養たっぷり
のメニューです。大満足でした。
出発時間まで少し時間があった
ので、店の前の海岸を見に行き
ました。根路銘海岸と言います。
前方の丸い島は「古宇利島」で
す。海の中を真っ直ぐ通る県道
247号線の古宇利大橋の景観
は美しいことで有名です。一度
行ってみたいものです。
海岸沿いに生えている樹木の根
が変わっているので気になりま
した。根っこの一部剥がれてい
るところを見ると、細い繊維の
束でできていました。帰宅後名
前を調べてみると、「オガサワ
ラタコノキ」と言うそうです。
周りに落ちているのが、この樹
木の実です。大量にありました。
大宜味村の9条の会の方が乗車
していただき、東村の高江のテ
ント村へ向かいました。テント
村の前で、埼玉AALAから寄せ
書き「檄」を手渡しました。
ここで、「沖縄・高江 やんばる
で生きる」(写真:森住卓、解
説:三上智恵)を購入しました。
オスプレイパッドの基地建設に
より大自然に被害が出ています。
日本人の警備員でガードされて
いるゲートには、2年前訪れた
時はテント村がありましたので、
この2年間の間に激しい弾圧が
あって反対側に移されたのだと
思います。
このゲートの右側の金網のそば
に登れる小道がついていました
ので、みんなで登りました。
この小道の上から見たテント村
と乗ってきたバスです。この間
の道は県道70号線です。右は
米軍北部訓練場の中を北上して
いきます。
金網越しにゲート内の道を撮影
しましたが、なんの道だか分か
りませんでした。家に帰ってか
らインターネットでみると、こ
の奥左側に大きな四角形の目隠
しが2ヶ所表示されていました。
本当の目隠しとは思えませんの
で、アメリカ軍か日本米国追随
政府がインターネット上に工作
をしたものかと思われます。
今日の新聞で、米軍施設上空で
ドローン「規制を」と米ハリス
司令官が小野寺防衛相に要請と
いう記事が載っていましたので、
これだと思いました。
同じく上から反対側の山原(や
んばる)を撮影しました。写真
にはあまり写っていませんが、
右手に「与那覇岳」があります。
やんばる国立公園内にある沖縄
本島における最高峰で、標高は
503メートルであります。その
ほとんどをアメリカ軍北部訓練
場として爆撃練習を繰り返して
います。
この山原にはスダジイ(イタジ
イ)という縄文人の時代から食
料としてきたドングリがたくさ
んとれる自然豊かな森となって
います。しかし、その森も今で
は瀕死の重傷化しているに違い
ありません。
「座り込みガイドライン」とい
う看板が目に入ってきました。
そこには、次のように書いてあ
ります。
私たちは非暴力です。
コトバの暴力を含め誰もキズつ
けたくありません。自分の意志
で座り込みに参加しています。
誰かに何かを強いられることは
ありません。自分の体調や気持
ちを大切にトイレや食事などで
はなれる時は周りの人にひと声
かけて下さい。トランシーバー
やケイタイを活用してムリのな
いように!いつでも愛とユーモ
アを
ヘリパッドいらない住民の会
高江周辺の地図です。解説をし
ていただいた大宜味村9条の会
の方を送りがてら那覇へ向かう
ということで、同じ道を戻る予
定でしたが、北端の辺戸岬へ通
じる県道70号線を北上し、途
中で左折して県道2号線(与那
安田横断道路)で国頭村(くに
がみそん)与那に抜ける道を通
って大宜味村に行くことになり
ました。北端近くまで行けたの
で嬉しい限りです。また、9条
の会の方から国頭村の問題(辺
野古埋め立ての土砂を海上輸送
する港反対闘争)も色々聞くこ
とができ、大周りしただけの価
値はありました。
この日の夕食はオプションでし
たが、多くの方が琉球料理と琉
球舞踊の店「味と踊りの竜宮城
うらしま」へ行くことになりま
した。料理はさて置き、琉球舞
踊は見応えがありました。踊り
は全部で前半5曲、後半5曲と
たっぷり見ることができました。
詳しい写真は本編12月10日
でご覧ください。また、加那ヨ
ー天川の中の島尻天川節の動画
を表面に貼り付けてありますの
で、YouTubeを通してご覧くだ
さい。
なお、上の写真は「かぎやで風」
です。琉球王朝時代より、祝宴の
幕開けとして最初に披露される踊
りです。
この踊りは「四つ竹」と言って、
中国からの客人をもてなす際に踊
られていた代表的な宮廷舞踊の一
つで、鮮やかな紅型(びんがた)
衣装に花笠をかぶり四つ竹を打ち
鳴らし踊ります。天下泰平の世を
寿ぐ歌にのせ、宮廷の華やかさが
甦るようです。
舞台の上で記念撮影をしました。
2泊目と3泊目は、那覇市内のホ
テル「リゾネックス那覇」での宿
泊です。
12月11日(月)3日目
3日目の最初の見学地は、那覇市
内の「不屈館」です。2年前も訪
れているので、ここでは、ビデオ
を中心に拝見しました。これから
日本各地で上映される予定のドキ
ュメンタリー映画「米軍が最も恐
れた男 その名は、カメジロー」
(佐古忠彦:初監督作品、坂本龍
一:オリジナル楽曲、大杉漣:語
り)があります。その元になった
TBS製作の「米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知ってい
ますか?〜」を視聴することがで
きました。これも感動の作品です。
ビデオ「教えてよ亀次郎」と「不
屈Tシャツ」を購入しました。
続いて、那覇市内の琉球新報博物
館の見学です。「日本復帰45年
の現実」のコーナーでは、新聞を
使って沖縄で起こった基地問題事
件などを展示してありました。
博物館の方が、自作の表を見せな
がら沖縄の歴史を説明してくれま
した。
1879年(明治12年)までは
琉球王国として自己決定権を有し
ていた。この年日本併合「琉球処
分」により沖縄県となったが、そ
の後の66年間は実質的に自己決
定権を有することはできなくなっ
ていた。後ろの写真は、首里城を
占領する明治政府軍が写っている
貴重な写真だ。
1945年(昭和20年)以降は
米軍占領によって米軍事優先の下
に27年間自己決定権がなかっ
たため、土地を勝手に取り上げら
れ、基地をたくさん作られてしま
った。
1972年(昭和47年)5月1
5日に日本復帰を果たしたが、米
軍と日本政府による密約(日米地
位協定)により、その後45年
(現在時点)も自己決定権がなお
ざりにされ、米兵による殺人事件
もうやむやにされ続けています。
アメリカ軍は、植民地時代さなが
らに現在でもなお「占領意識丸出
し」で事に当たっていることが新
聞から見て取れます。日本本土で
は過小評価の記事しか載っていま
せん。残念なことですが、米国に
頭が上がらない政権中枢の現れで
すね。
第二次大戦末期、沖縄上陸の様子
を撮影した写真を見ることができ
ました。アメリカ軍の物量の大き
さをまざまざと見せつける写真で
す。日本軍中枢の暴力的精神論で
は逆らえない現実があります。日
本軍中枢が「本土決戦」への時間
引き延ばしや「天皇制護持」の和
平交渉の道を探ろうとして、沖縄
「捨て石作戦」を取らなければ、
本土から来た兵隊約66000人と沖
縄の徴集兵隊約30000人と沖縄民
間人約94000人と朝鮮半島から強
制連行された軍夫や「従軍慰安
婦」の約10000人の合計約20万
人の尊い命が失われずに済んだこ
とを思うと、日本軍部政権の罪を
感じざるを得ません。
米軍占領下の27年間の「米軍人
権軽視の事件」を一覧表にしたボ
ードです。占領下でのやりたい放
題は、日本軍の台湾・朝鮮・満州
・南京などでも起こしたことだと
推察できます。人間の性(さが)
なのでしょうか?「人を支配する
ことによる暴力」はいつ無くなる
のでしょうか?ぜひ、地球が滅び
る前に実現したいものです。
新聞社の博物館ですので、印刷技
術の変遷も展示されていました。
私自身「情報」を伝達する印刷な
どの技術はとても大事なものだと
思います。それも正確な内容を大
量に伝達していくことの大事さを
感じています。コンピュータや電
動印刷機も必要ですが、電気が無
くなった時に活躍する活版印刷に
興味があるので、今回はたくさん
写真を撮影しました。
12月11日の本編でご覧くださ
い。
昔の新聞は、活字を活字棚から拾
ってケースに組み上げていき、そ
こでステロ版という紙型を作り、
それで大量の紙に印刷していく方
法を取っていました。この活字を
作るには、鉛が約80%、アンチ
モンが約15%、錫が約5%で合
金の地金を作って母型に流し込み
作製していたようです。
琉球新報社の社是と編集綱領があ
ったので、社是を書き写してみる
と、3つからなっている。
1.不偏不党、報道の自由と公正
  を期す。
1.沖縄の政治、経済および文化
  の発展を促進し、民主社会の
  建設に努める。
1.国際信義にもとづき、恒久世
  界平和の確立に寄与する。
日本本土の新聞では見かけない
「沖縄基地反対に賛成する海外
知識人」という紹介新聞には驚
いた。世界の知識人たちにも、
沖縄の米軍基地の不当性が伝わ
りつつあるのを感じることがで
きた。
「世界へ繋ぐ沖縄の声と心」と題
してオリバー・ストーン(映画
「プラトーン」の映画監督)やゴ
ルバチョフを沖縄に招き、講演会
を開催した記事が掲載されていま
した。
琉球新報新聞社の見学を終えた
後、昼食に「沖縄そば」を食べに
「八重山そばジュネ」という店に
行きました。
そのあと、高速道路に乗り、石川
ICで降りた後、うるま市(旧石川
市)の石川出張所で、宮森630
会の方の説明を聞きました。
1959年(昭和34年)6月3
0日午前10時40分ごろ、米軍
のジェット戦闘機が宮森小学校に
墜落しました。
宮森小学校の手前の民家に墜落し
住民6名が死亡。ジェット燃料を
撒き散らしたため大火災が発生
し、ジェット機が大きくバウンド
した下にあった木造の2年3組の
校舎が全焼し、生徒6名が死亡。
木造の4年1組の教室の屋根の瓦
を吹き飛ばした後、コンクリート
校舎の2階部分にある6年3組の
教室にエンジンが飛び込み、生徒
3名が死亡。ブランコにいた3年
生1名と水道前にいた4年生1名
も死亡しました。重軽傷を負った
児童は156名、一般の方は54
名という大惨事でした。
体に大火傷を負った2年生の一人
は、後遺症が残り大学生の時に亡
くなったそうです。
米軍嘉手納空軍基地を飛び立った
ジェット戦闘機は東シナ海上空で
故障を感知し、右回転で残波岬を
通り越し、再び嘉手納飛行場に不
時着降下を試みたが、コントロー
ルがすでに困難となり失敗。今度
は陸地を左回転で2回目の不時着
を試みようとするが、具志川上空
で火災発生、その後爆発したた
め、パイロットは脱出してしまっ
た。そのため、コントロールが全
くできないまま石川市の宮森小学
校に墜落してしまう。真栄田岬方
面であれば被害が抑えられたが、
人口密集地の石川市に向かってし
まった。
基地に隣接する街の絶え間ない恐
怖がここにある。
当時の写真が掲示されていた。
その後、直接宮森小学校を訪れ
た。
慰霊碑。ここで毎年6月30日
に慰霊祭が行われている。50
年目にして遺族が語りました。
50年経って教師が語りまし
た。50年間閉じていた同窓生
が語りました。証言集やドキュ
メンタリー映画「6.30」をぜ
ひ読んで見てください。忘れて
はいけない大惨事です。
この日最後は、同じうるま市
(旧具志川市)昆布で、米軍
占領下時代の1965年12
月に始まった米軍による約2
万坪の土地接収に反対する闘
争が起こった場所だ。「一坪
たりとも渡すまい」の歌が作
られた場所だ。
米軍はここをベトナム戦争の
軍需物資の集積所として利用
する計画であったが、197
1年に米軍は接収を諦めた。
沖縄土産を買うために「スー
パーかねひで」に立ち寄って
定番の「ちんすこう」を2箱
と「塩ちんすこう」を3袋も
購入した。今回「チョコ味の
ちんすこう」を発見したので
みんなに配ったら美味しいと
言ってくれた。
12月12日(火)4日目
最終日は「ひめゆり学徒隊を
たどる」と題して、その逃避
行の後を順に追って行きまし
た。最初に訪れたのは、南風
原(はえばる)文化センター
です。
1944年3月に第32軍が
沖縄守備軍として配置される
と、その年の12月には男子
学徒は兵隊と同じように戦う
「鉄血勤皇隊」として配置
され、女子学徒は看護教育を
受け「看護要員」として動員
されることになった。
沖縄師範女子部と県立第一高
女は「ひめゆり学徒隊」(2
22人)として、南風原国民
学校(今の小学校)を改造し
た沖縄陸軍病院の看護補助要
員として1945年3月24
日動員された。
南風原の沖縄陸軍病院(広池
文吉:軍医中佐、病院長)は
首里城の南に位置し、交通の
要所でもあった。この絵の右
側全体が「黄金森」と呼ばれ
る丘陵地である。
ひめゆり平和祈念資料館で購
入したDVDアニメ「ひめゆ
り」(梅津 研:原画・構成
安里かれん:ナレーション)
を見ると、最初の移動は遠足
に行くような感じだったよう
だ。
外科、内科、伝染病科の3つ
の科があり、比較的若い民間
の医師や看護婦も召集され、
医師は軍医として厳しく鍛え
られたようだ。のちに、全て
外科の名称となり、第一、第
二、第三がついた。
戦局が悪化し始めた1944
年9月3日から「黄金森」に
横穴式の病院壕掘られ始め、
1945年3月23日沖縄本
島上陸に向けた米軍の艦砲射
撃が始まると、陸軍病院は各
壕へと移っていった。
ここから分かるのは、「ひめ
ゆり学徒隊」は早い段階で国
民学校の病院から壕内の病院
へ移ったと思われる。
そこで目にしたものは、南風
原文化センターに再現してい
る「沖縄陸軍病院南風原壕
群内部」で、その様子を知る
ことが出来る。
浦添、首里方面で大空襲があ
り、負傷兵が1日70人から
100人も送られてくると、2
段の棚でできた壕の中のベッ
ドには血だらけの人々であふ
れかえった。
歌人でもある軍医の長田紀春
は次の詠歌を記しています。
「切り落とせし 兵の足をば
埋めにゆく 女子学生ら 唇
噛み駆ける」
この南風原にも日本軍の「慰
安所」があり、公娼制度の犠
牲者が、さらに軍隊による性
暴力の被害を受けていた。
「沖縄陸軍病院南風原壕群」
で亡くなった人たちの氏名が
掲示してありました。
戦車の残骸が飾ってありまし
た。
南風原文化センターを後にし
た私たち一行は、黄金森の遊
歩道を通って、唯一入壕でき
る20号の入り口まで行きま
した。他にも壕はたくさんあ
りましたが、20号の壕だけ
が入れます。
ここと同じような23号24
号の壕に「ひめゆり隊」はい
たそうです。
米軍が近ずいてきたので、1
945年5月25日に南風原
病院壕から南方へ避難を開始
する。
その際、医薬品を埋めて逃げ
たものを、後日掘り出した。
高さ1.8m、幅1.8mの壕
は、懐中電灯を消すと真っ暗
でした。
壁が崩れやすいので、現在で
は壁面崩壊防止の柵がされて
いました。
この通路の半分に2段の棚が
置かれ、患者がたくさんいた
そうです。
南方に避難する際、歩けない
患者には青酸カリが配られる
という残酷なことが行われま
した。陸軍は捕虜となること
を決して許さなかったので
す。
第三外科の長田紀春軍医は、
町のお医者さんとして活躍さ
れた方でしたので、「患者を
殺すことができない」と青酸
カリを捨てさせて、非常食の
乾麵包を直ぐに配ったそうで
す。
「学徒隊」(「ひめゆり隊」
だけでなく、県立第二高女の
「白梅隊」など)は、日本軍
と共に沖縄本島南端部に向か
いました。「白梅隊」は生徒
だけの56名からなる女子学
徒で、6月4日東風平(こち
んだ)の野戦病院が、糸満の
国吉へ撤退する際「白梅学徒
隊」は解散させられたが、南
部の戦場を彷徨した末、国吉
の野戦病院に合流して、そこ
で22名が亡くなっている。
沖縄陸軍病院の避難壕は、糸
洲と波平と伊原などに分かれ
たが、「ひめゆり隊」は「伊
原第三外科壕」(ひめゆりの
塔の立つ写真の自然壕)に入
った。
6月17日伊原第一外科壕入
口近くに砲弾が落ち、多数死
傷者がでる。
6月18日山城の本部壕が直
撃弾を受け、多数死傷する。
同日、糸洲第二外科壕が米軍
の「馬乗り攻撃」を受け、生
き埋めや負傷者が出る。「馬
乗り攻撃」とは、壕の出入り
口を制圧した後、壕の上から
ボーリングして石油を垂らす
と、壕の下奥に流れ込み、そ
こへ入口から火炎放射器など
で火を入れ石油に引火し、奥
の方にいる婦女子や子どもや
女子学徒隊を窒息死させる残
虐な攻撃をいう。
制圧というより全滅を目指し
た疑いあり。
6月19日、前日本部壕の直
撃弾で重傷を負った広池文吉
病院長が死亡し、その後を継
いだ病院長が「沖縄陸軍病院
の解散命令」を出す。(この
資料館前の説明図には、6月
18日とあるが詳細は不明)
同日、上の写真の伊原第三外
科壕が米軍の馬乗り攻撃にあ
い、多数の死傷者を出す。
ここで85人(教師・学徒は
46人)が亡くなる。
女子学徒は10校から555
人が動員され、194人が亡
くなった。当時、中学校や高
等女学校へは、同世代の約一
割しか進学できなかった。少
年少女たち2240人が戦場
動員され、うち半数近い92
6人が死亡した。皇民化教育
を徹底して刷り込まれた少年
少女たちの死は、教育が戦争
に果たした役割を問いかけて
いる。
壕から逃げ出た「ひめゆり学
徒隊」の人々は、さらに南の
「荒崎海岸」まで出た。当時
の彼女たちの目には、米軍の
戦艦で埋まった海が写ってい
たことでしょう。
絶望し自殺した「ひめゆり学徒
散華の碑」まで歩いて行きまし
たが、ゴツゴツした岩肌が骨で
埋まっているような感触を覚え
ました。
この岩陰で身を寄せ合い亡くな
っていったそうです。
沖縄平和の旅最後は、沖縄本島
南端の喜屋武(きゃん)岬で
す。
沖縄北部からこの南端まで、戦
中戦後の米軍並びに日本軍(戦
後の米国追随しかしない日本政
府も含む)の沖縄の人々に対す
る行為をつぶさに見聞きしてき
ました。同じ日本人として怒り
しか湧いてきません。よく平気
でいる日本人に、人間とは何か
を問いたい気持ちでいっぱいで
す。ぜひ沖縄平和の旅に参加し
て、人間性を取り戻してくださ
ることを願って、この紀行文を
終わりにします。
喜屋武岬に立つ平和の塔に願い
を込めて
最後に、この沖縄平和の旅2
を書くに当たって、上記の本
を大変参考にさせていただき
ました。感謝いたします。
発行の(株)高文研は、「高
校生文化研究会」が前身で、
私は月刊誌「考える高校生」
を愛読していました。いつの
時代にも人々の立場に立って
出版活動をされている姿勢に
頭が下がります。

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