戻る

<<<2019年11月、大久野島・呉・広島平和の旅>>>



11月19日(火)1日目
羽田空港より出発
1時間半で、広島空港に到着。
空港から貸切バスで、瀬戸内海を見な
がら竹原市へ。
竹原市忠海町の忠海駅横にある公民館
で、学徒動員体験者で大久野島で作業
した岡田黎子さんのお話を聞く。
録音画面あり。
すぐ側の忠海港にある大三島行きフェ
リー乗り場。昔行った大三島の大山祇
神社が懐かしい。ここから大三島へ行
く途中に大久野島の港があり、そこで
降りるということらしい。
忠海港でツアー参加者の集合写真を撮
影。後ろの島は大三島だと思います。
フェリー乗船後、忠海港(広島県竹原
市)を振り返る。15分で到着しまし
た。
大久野島フェリー乗り場から右側へ進
んだところにある旧軍発電所への入口
のトンネル(中が見えない様に土塁で
囲まれている)
旧軍発電所。1990年当時の環境省はこ
こを壊すことを計画したが、毒ガス障
害者や中学校の生徒らの反対署名活動
の結果、存続することになった。
立ち入り禁止の場所であったが、特別
許可で構内に入ることができた。内部
は、大きな風船爆弾の組み立てに利用
されたと言う大きな室内でした。
日本が毒ガスを使用したと言うことは、
1984年(昭和59年)まで日本で
はほとんど知られていませんでした。
化学戦の実体は慎重に秘匿され、旧軍
関係者以外の日本人はほとんど事実を
知りませんでした。そこで、広島県等
の協力で当時の様子をしらせ恒久平和
を求めてこの毒ガス資料館ができまし
た。
島内のガイドの山内正之さんから詳細
な話を聞きました。1984年日本の
化学戦実施に関する資料が報道されま
した。毒ガス兵器の研究開発は東京の
旧陸軍科学研究所、大量製造したのは
広島の大久野島、充填したのは北九州
市の曽根、化学戦の運用と訓練は旧陸
軍習志野学校と言う構図が明らかにな
りました。
1944年頃の大久野島の毒ガス製造
の工場群の地図と写真が展示されてい
ました。周囲4.3キロの小さい島全体
が毒ガス製造の場所として利用されま
した。そのため、当時の地図から消さ
れていたそうです。ここへ学徒動員と
して小学校高等科2年生や高等女学校
2、3年生(13〜14才の男女生徒)
約630名が駆り出されました。
学徒動員の生徒は、主に「発煙筒作り
(中に毒物が充填されていたのを後日
知る)」や「気球爆弾づくり」でした
が、毒ガス製造に携わった工員たちは
写真の完全防護スタイルで真夏でも作
業をしていました。
イベリット・ガスは、その隙間から侵
入し工員たちは結膜炎・助膜炎・肺炎
・気管支炎・皮膚炎などをおこし、亡
くなったり、病院に入院したり、癌に
なったりしています。
大久野島毒ガス製造工場では、黄色1
号と言われる「イベリット」の他に、
赤1号と呼ばれた「くしゃみ剤」や茶
1号の「青酸」、緑1号の「塩化アセ
ト・フェノン」などを製造し、日本軍
は1930年台湾霧社事件、1931年満州事
変、1932年上海事変、1933年満洲で第
731部隊が人体実験を開始し、中国各
地で毒ガス兵器を大量に使用していた。
大久野島は極秘の毒ガス製造地として
地図上から消されていた。広島の原爆
被害と同様に、毒ガスによる加害の側
面も忘れてはいけない事実です。
11月20日(水)2日目
この島にある唯一のホテルです。島全
体が国民休暇村の指定を受け、老若男
女をはじめ多数の外国人が「うさぎの
島(700匹以上のうさぎが放し飼いに
なっている)」を訪れてうさぎと遊ん
でいた。平和な時代の感じがあふれて
いるが、地下水が使えず水を運んでき
ているこのホテルの周りには毒ガス貯
蔵庫跡などがあり、うさぎの巣穴があ
ちこちに見られた。
足元にはこれらのうさぎが寄ってきて
愛くるしい限りである。動物が死に絶
えたこの地に、うさぎを放し飼いにし
ている悪い意図はないと思うが、私た
ちはどうしても炭鉱のカナリヤを思っ
てします。埋蔵されている毒ガスが目
を覚ますのを感知するためなのではな
いかと。
敗戦後、証拠隠滅として行った学徒動
員の生徒たちによる移送作業(岡田黎
子さんの絵画に様子が描かれている)
として、貯蔵庫から忠海の倉庫、阿波
島の倉庫、大三島の倉庫や農地に毒ガ
ス弾や毒ガス缶は移されたが、連合軍
の毒ガス処理によって、再度大久野島
に集められた。
その後、(A)島近海の海に沈めるが、
猛毒のものは土佐沖まで運び、海洋投
棄した。(B)焼却する。その際に飛び
散ったヒ素などの毒物が地下水などに
見られるようだ。(C)島の地下深くに
埋没した。これらの処理を「帝人三原
工場」が請け負って行ったと言うこと
である。
中国では、各地で毒ガス缶による2次
被害が起こり裁判になっている。
ジェンダーゼミツアーに参加させて
もらった埼玉AALAの皆さん8名で
記念撮影(逆光のため見ずらくて
ゴメンなさい)
呉市の大和ミュージアムの前で、
奥田和夫さんから説明していただく。
館内に展示された戦艦大和の模型 大和ミュージアムの玄関外に表示
されていた看板を見て、この呉の
そばに昔「朝鮮通信使」が泊まっ
た下蒲刈の松濤園などがあったこ
とを思い出した。
いつか行てみたい。
自衛隊の宣伝館「てつのくじら館」
の中に潜水艦の内部が見られるよう
になっていた。
昼食をとった食堂の壁に「広島の男」
のモットー(指針、イタリア語のmotto
が伝来)が掲示してあった。
アニメ映画「この世界の片隅に」で
有名になった歴史の見える丘で、戦
前も軍港(現在も自衛隊港)の呉市
の全貌の説明を聞く。
呉港を背景に歴史の見える丘で
ツアー参加者全員で記念撮影
港まで降りて来て、潜水艦桟橋
の前で記念撮影(後に潜水艦が
4隻停泊していた)
その潜水艦を拡大撮影 自衛隊内でのいじめが発覚して
から、駆け込み寺になっている
共産党の看板がありました。
11月21日(木)3日目
宿泊した三井ガーデンホテル広
島の食堂から広島市内を撮影
広島平和記念資料館の学習室
で、当時14歳だった國分良
徳さん(90歳)から被曝体
験を聞く。
3日目は埼玉AALAの方7名
にジェンダーゼミの方2名の
合計9名の参加です。國分さ
んを囲んで記念撮影
新しくなる前の資料館でも見
た人影が焼き付いた壁。
展示方法が一新されていまし
たが、胸を打つ内容には変わ
りありませんでしたので、多
くの方が平和資料館に行かれ
ることをお勧めします。
昼食に「広島のお好み焼き」
を食べようと皆さんで入った
のが、広島カープ応援グッズ
の展示してある食堂でした。
原爆ドームの前で記念写真 平和公園フィールドワーク
の説明をしていただきまし
た。ボランティアの脇田さ
んの説明を聞きながら、爆
心地、相生橋、朝鮮人被害
者の碑、原爆の子の像など
を見学して回りました。
原爆ドームの昔の姿の写真
を紹介してくれました。
かなりモダンな建物だった
ようです。
左の写真と同じく川向こう
から撮影しました。
原爆供養塔 原爆の子の像 原爆死没者慰霊碑
(広島平和都市記念碑)

戻る