後藤新平

陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の岩手県水沢市吉小路)出身。江戸時代後期の蘭学 者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家 の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。 関東大震災の直後に組閣された山本権兵衛内閣では、彼は内務大臣として震災復 興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもの で、30億円という当時としては巨額の予算のために財界などからの猛反対にあい、 当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも現在の東京の都市の骨格を形作 り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。 特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の 必要性を強く主張し、縮小されながらも建設された。現在の東京の幹線網の大き な部分は後藤に負っているといっていい。もし彼が靖国通りや明治通り・山手通 りの建設を行っていなかったら、ただでさえ渋滞でうずまく現状の東京はどうな っていたか想像もつかない。 ※岩手県の水沢市立後藤新平記念館に詳しい紹介が掲載されています。