平将門
坂東平氏の台頭
平安中期、朝廷は地方の政治を国司に一任していたため、地方において国司は祭祀・行政・司法・軍事の
すべてを司り、管内では絶大な権限を持っていた。そのため、私利私欲に走る国司が多く、地方の政治は乱
れていった。それに伴い、治安も悪化の一途を辿っていったため、自分たちの土地を護るために人々は武装
し始めた(「武士」の発生)。
武士は当初は単独で戦っていたが、力を持った山賊らに勝てなくなったため、武士を率いる棟梁を地方の
土着国司に求めた。そして、武士は土着国司を筆頭に「武士団」を結成し、やがて小勢力が集まって大勢力
となり、貴族支配の社会を転覆させるほどの軍事力を有するようになった。
その代表格が、平将門の血筋である桓武平氏(桓武天皇の血統)である(ほかに清和源氏)。
将門の祖父・高望(たかもち)は、上総国(千葉県周辺)の国司として赴任したが、任期が過ぎても帰京
せずに在地勢力との関係を深め、一族を率いて常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発した。その中で、将
門の父・良将(よしまさ)は下総国(茨城県南部)を本拠として未墾地を開発、鎮守府将軍を勤めるなどし
て出世し、坂東平氏の勢力を拡大していった。
平氏一族の私闘
将門は15~6歳の頃に上京し、藤原忠平を私君として中級官人となるが、父・良将が死去したために帰郷
すると、父の所領の多くが伯父・国香(くにか)や叔父・良兼(よしかね)によって横領されていた。将門
はそれに怒り、下総国豊田を本拠として勢力を培っていった。
承平5年(935年)、将門は源護の子・扶、隆、繁の三兄弟に常陸国野本(筑西市)にて襲撃されるが、源
三兄弟を討ち破り、逃げる扶らを追って源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払って三
兄弟を討ち取った。その際、さらに伯父・国香の館である石田館にも火をかけ、国香を焼死させた(襲撃の
きっかけは諸説ある)。
その後、源護や国香の子・貞盛(さだもり)らによって報復のための襲撃を受けるが、将門はそれを悉く
撃破し、源護は朝廷に告状を出して将門を裁こうとするも、朱雀天皇元服の大赦によって全ての罪を赦(ゆ
る)された。
朝廷との対立
天慶2年(939年)、常陸国の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきた。玄明は常陸
国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否、乱暴をはたらき、さらに官物を強奪したこ
となどから追捕令が出されていた。維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い、それに応
じなかった。
その対立が高じて合戦となり、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃っ
たが、将門に撃破されて国府に逃げ帰った。将門が国府を包囲すると、維幾は降伏して国府の印璽を差し
出した。
その勝利を機に、将門は関東八ヵ国の国府を次々と占領し、独自に関東諸国の国司を任命した。また、
上野国を占領した将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて「八幡大菩薩は平将門に
天皇の位を授け奉る」と託宣すると、将門はそれを以って自らを「新皇(しんのう)」と称した(この巫
女は菅原道真の霊魂だとされる)。
以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、遂に関東全
域を手中に収めた。
将門謀反の報は直ちに京にもたらされ、同時期に西国で「藤原純友の乱」の報告もあったことから朝廷
は驚愕した。そこで直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられた。また、「将門を討った者は
身分を問わず貴族とする」という「太政官符」を全国各地に発布した。
平将門の乱
天慶3年(940年)、藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立した。そのころ、将門は下総
の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた(この間、藤原秀郷は将門側につこうとしていたとも云われる)。
すると間もなく、貞盛が下野国押領使の藤原秀郷※と力を併せて4000の兵を集めているとの報告が入った。
将門のもとには1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えてその人数で出陣し
た。
藤原玄茂の率いる将門軍の先鋒は、貞盛と秀郷の軍に撃破され、下総国で合戦になるもわずかな手勢の
将門軍の勢いは揮わず、退却を余儀なくされた。
貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、将門の本拠である石井に攻め入り、火を放った。将門は兵を召集するが、
劣勢のためになかなか集まらず、わずか400の兵で陣を敷いた。そして、貞盛と秀郷の軍には藤原為憲も加わ
り、連合軍と将門の合戦が始まった。
南風(春一番)が吹き荒れると、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破
した。しかし、将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風
を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた。
将門は自ら先頭に立って奮戦するが、何処からか飛んできた矢が将門の額に命中し、その瞬間に首を刎ね
られた。すると、将門の首は勢いよく飛び立ち、現在の東京の大手町に落ちたという。なお、将門に刺さっ
た矢には藤原秀郷の名が刻まれていたとされる(また、将門の胴体は首を追いかけていき、途中で力尽きた
場所が神田明神とも)。
将門の死によって将門軍は鎮圧され、その後、関東独立国はわずか2ヶ月で瓦解した。また、残党は掃討
され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺された。そして、将門を討った秀郷には
従四位下、貞盛、為憲には従五位下がそれぞれ授けられた。
※藤原秀郷(ふじわらのひでさと):当時の関東最強の武士(俵藤太とも)。近江三上山の百足退治の
伝説で有名
将門の首
平将門の乱の後、将門の首は京に持ち帰られて梟首(晒し首)とされた。しかし、将門の首は何ヶ月たっ
ても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来
い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。
しかし、歌人の藤六左近がそれを見て「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごと
にて」と歌を詠み上げると、将門はカラカラと笑い、たちまち朽ち果てたという(また、将門の首は関東
を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう)。
(mataponさんの人文研究見聞録より抜粋)
|