谷干城


天保8年(1837年)、儒学者・谷万七(まんしち)の第4子として土佐国高岡郡窪川に生まれた。のち、父万七
が土佐藩の上士(小姓組格)として取り立てられる。安政6年(1859年)、江戸へ出て安井息軒の弟子となり、
帰国した後は藩校致道館で史学助教授となった。武市半平太と知り合って尊王攘夷運動に傾倒するが、慶応2
年(1866年)の長崎視察の際、後藤象二郎や坂本龍馬と交わって攘夷の不可なるを悟って倒幕へ傾いたとされ
る。慶応3年(1867年)に江戸に出て西郷隆盛と会い、薩土(薩摩藩と土佐藩)同盟を結んで討幕運動を目指
した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、大軍監として北関東・会津戦線で活躍し、明治3年(1870年)、
家禄400石に加増されて少参事として藩政改革に尽力した。

明治4年(1871年)の廃藩後、兵部権大丞として新政府に出仕する。明治5年(1872年)には陸軍少将として
熊本鎮台司令長官となる。神風連の乱後、再び熊本鎮台司令長官となるが、この人事は祖先に山崎闇斎門下
の大学者谷秦山をもち、その精神を叩き込まれている谷であれば西郷軍につくことはあるまいと見込まれて
のものであったという。明治7年(1874年) 5-12月の台湾出兵に際しては陸軍中将西郷従道の下に海軍少将赤
松則良と共に参戦した。[1]明治10年(1877年)、西南戦争の際には52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本
城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。

西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長となった。しかし、明治14年(1881年)に先の台湾
出兵で戦死・病死した将兵の遺体を一部の地方官が乱暴に取り扱った事実を政府・陸軍首脳部が放置してい
た事実を知って抗議の辞任をする。この時、明治天皇は谷の意見を評価して辞任を差し止めさせようとした
り、佐々木高行を通じて帰郷を延ばして自分に忠節を尽くすように伝言している。

その後、学習院院長から政治家に転身。明治18年(1885年)第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任するが、
閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策(当時の外相は井上馨)を批判し、条約改正問題で辞任した。後に
貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開した。国粋主義、農本主義的立場から、薩
長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなしていた。
日露戦争時には、健全財政論・防御中心の軍備を主張する政治的立場から開戦に反対した。

明治44年(1911年)、75歳で没し、養子・谷乙猪の長男・谷儀一が家督を継いだ。

 坂本龍馬への尊敬 [編集]土佐藩上士の谷干城は、同じ藩の郷士と呼ばれる下士出身者である坂本龍馬を厚
く尊敬したとされる。また彼自身の伝聞では、慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺されたときには、真っ先に現
場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯
を追ったという。谷は事件当初より、犯人は新選組と決めつけていたといわれ、戊辰戦争の際には、流山で
捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問について、薩摩藩と殊更対立した。斬首・獄門という惨刑[2]に
処したのも谷であるが、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。

明治33年(1900年)、かつての見廻組の一人であった今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、
谷は、それを聞き及ぶと「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したという。

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