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11/11(金)
成田空港北ウィングに集合しました。この
旅は、富士国際旅行社の鈴木さんによって
万全の準備がされていました。
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引率し解説していただける鈴木勝比古さん
から挨拶がありました。
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ハノイ到着後、ハノイの「スーパーキャンドルホテル」
の会議室で、鈴木勝比古さんによるレクチャ
ーがありました。
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これから行くヴェトナム北部、中部、南部の
概要が分かりました。
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最初の夕食会場レストラン「Mam」で、飲み物
の注文を挙手をしてとりました。この後ずっ
とこの方式です。皆さんはビールを美味しそ
うに飲んでいました。私はビールがダメなの
で、その都度ソフトドリンク系を飲み、笑いを取っ
てしまいました。
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知り合いが魚醤がダメだったと言っていまし
たが、私は美味しかったです。ヴェトナム料
理もラオス料理と同じく、かなり美味しく感
じられました。この写真は春巻き風の料理で
す。
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この旅行の河内団長からご挨拶
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夕食後、通りに出て目に付いた生地屋さんの
店先です。色とりどりの綺麗な色の生地がた
くさん展示されていました。
面白かったのは、どの店でもマネキンの頭
が坊主だったことです。
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11/12(土)
最初の見学地は、「B52博物館」です。ヴ
ェトナム戦争時の兵器や当時の写真が飾って
ありました。
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B52が墜落した残骸が唯一展示されている
場所です。
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ホーチミンの遺体が安置されているホーチミ
ン廟
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その前で集合写真を撮りました。
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ホーチミン廟のそばにある一柱寺です。1本
のコンクリートの柱(昔は木製だったかもし
れません)の上に祭壇がありました。
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旧オペラ座です。ここでは、音楽会などが開
かれていたようです。丁度この時、大学生
(アオザイ姿の女子大生も含む)の卒業記念
写真の撮影をやっていました。
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昼食後少し時間があったので、下町の雑貨横
丁を見に行きました。現地のガイドさんがい
たので、急な対応にも応じていただけました。
やっぱりこういう所は良いですね。
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訪れた横丁には、冠婚葬祭の飾りの店もたく
さんありました。
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ハノイの友好協会センターです。
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ここの会議室で、ヴェトナムAALA協力委
員会の副会長グエン・バン・フィンさん(右
から2人目)と懇談しました。
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11/13(日)
ハノイのノイバイ空港で、お世話になった現
地ガイドのアさん(Mr Pham Van A)を撮影
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ヴェトナム中部のダナンに架かる龍の形をし
たロン橋。夜になると炎を吐くそうです。
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レストラン「Apsara」の入り口にあった古
代王朝時代の遺跡の一部
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ダナンからホイアンへ続く道路の左側は南シ
ナ海で、南国情緒の雰囲気です。
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ホイアンの宿は、「ホイアン・ビーチ・リゾート」と言う
雰囲気の良いコテージ風のホテルでした。
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このホテルの会議室に、地元のファン・チュ
−・チン大学理事長のグェン・ゴクさんに来
ていただき、ダイオキシンを大量に含む枯葉
剤の除染の話(原発事故の汚染土の除染とよ
く似ている)やソンミン虐殺事件やクァンナ
ムのたたかい、不敗の村(大島博光訳)やサ
ヌーの森の話など知らないことばかりだった
ので、今後の勉強の糧になりました。
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ゴクさんを囲んで記念撮影
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この日の夜は、満月なので「ランタン祭り」
が開かれていました。満月の夜には、電気を
消してランタンの明かりだけで過ごし、電気
の利用の仕方を考え、原発がなくても楽しく
過ごせることを実践しているそうです。日本
からの原発導入の話が立ち消えになったそう
で、旅の全員がホッとしていました。
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川面に映るランタンの明かりの美しいこと。
この旅の大きな目玉でした。観光という点と
原発反対という点がここでは合致していて見
事です。
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通りをそぞろ歩きながらランタンの明かりを
楽しむ人々
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この日の夕食は、ホイアンのレストラン「Tam
Tam」です。どの品を見ても洒落ていたの
で、ほぼ掲載しました。まず、これは「揚げ
ワンタン」です。細かく切った小エビが上に
乗っています。
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左がライスペーパーで、右がホイアンのサラ
ダです。ライスペーパーの上にサラダをのせ
て、食べます。
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ホワイトローズ(米粉で巻いた生餃子風の食
べ物でした。メニューにケーキと載っていた
ので、スマホで苦労して調べました。)
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ヴェトナム風クレープ(パイン・セオ)です。
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カオ・ラウ(うどん)中に入っていた豚肉と
の相性が最高でした。
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ランタンが幻想的で、LINEで送った写真
を見て、孫の愛ちゃんが「ジブリの映画の世
界だね」と喜んでくれました。
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11/14(月)
ホイアンの現地ガイドのイェンさん
(Ms.Hai Yen)を撮影
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昨夜のホイアンとは違う雰囲気の昼間のホイ
アン
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日本人には有名な来遠橋(日本橋)です。橋
の上に屋根が付いています。鎖国した江戸幕
府以前には、日本人がたくさん来ていた名残
です。
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その前で集合写真を撮影しました。
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ランタンの飾りの土産物を売っていました。
小1個1USドル(20000ドン)でした
が、仏壇の飾りに中2USドル(40000
ドン)を2個(400円相当)で買いました。
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華僑の人々のお寺「中華会館」に行きました。
そこにあった仁王像にあたる立像です。日本と
は、ずいぶん雰囲気が異なりますね。
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ホイアンのメインの観光通りです。両側に洒
落たお店が並んでいます。緑の木もたくさん
植えてあり木陰を作っていました。
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田んぼ(雨後のためか水量が多かった)の中
にポツリとある日本人墓地(作りは沖縄の墓
に似ている気がする)で、ヴェトナムの女性
と結婚し現地でなくなった人のようです。日
本の方向に向けて作ってあります。
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広大な田んぼを背景に、添乗員の筒井さんを
撮影
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昼食を食べたレストラン「KimDo」で、ビール
が飲めない私(最初は、痛風でプリン体禁止
のためだったが、長年のうちに体が受け付け
なくなってしまった)は、食事のたびに飲み
物で苦労した。コーラやマンゴージュース等
を飲んでいたが、遂に「ココナッツ・ジュー
ス」に巡り会えました。美味しくて、1個飲
み干してしまいました。
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小エビの入ったシュウマイ風の料理でした。
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小エビとチキンをフライにしカッシュナッツ
入りのポテトチップ風の食べ物でした。
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午後に、ダナンからホーチミン市に飛行機で
移動して、ベトナム戦争時代に囚人として監
獄で拷問を受けた女性ダン・ティ・ホン・ニ
ュットさん(現在80才)の話を聞くために、
夕食会に参加してもらいました。
個人的な話から戦争中の刑務所でのたたかい
などの話を聞きました。次の日に行った戦争
証跡博物館の横に展示されていたコンダオ島
のトラの檻にも入れられていたと聞き、日本
の「小林多喜二」を連想しました。
九条の会事務局長の小森陽一氏の母親の
小森香子さん作詞の「青い空は」を、ヴェト
ナム語に訳して、歌ってくれました。表に動
画を載せてありますので見て下さい。
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この夕食会はレストラン「VietHeritage」
で行われました。
この食べ物は、「豆腐と帆立の蒸し物」
という名前でしたが、見た目は卵プリン
にカニ味噌が乗っているみたいでした。
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最後の方に出た「パイナップルの容器に
入った混ぜご飯」は、お腹が一杯であま
り食べられなかったのが残念です。
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11/15(火)
今日は最終日ですが、見学地がたくさんある
だけでなく、心の中に残る体験をたくさんし
ました。この廊下は、宿泊した「ホテル・マジェ
スティック」の豪華な絨毯です。
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サイゴン川の畔に建つ1925年にできたと
いうこの豪華ホテルは、どういう記憶を持っ
ているのでしょうか?
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ホテル前の道には、バイク通勤の人々があふ
れていました。ちょっと前までは、自転車通
勤でしたが、すぐに車通勤になり排ガスで空
気が汚れるのが心配です。環境問題に関心の
高いヴェトナムなので、そうはならないかな。
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街角の様子も撮影しました。信号がほとんど
ないのにもかかわらず、人々は悠然と歩いて
渉っていました。バイクの運転手さんの気配
りはたいしたものです。ナポリの暴走とは全
然違います。私も悠然と渉ることができまし
た。
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枯葉剤被害者の治療にあたる「ツーズー病院」
の正門前には、患者の付き添い家族であふれて
いました。こちらは病気になると、家族が介護
するためたくさんの人が来院するとのことです。
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1975年にベトナム戦争が終わっても、枯葉
剤の汚染土(大量のダイオキシンを含む)の影
響で、生まれてくる子どもに症状が出ています。
枯葉剤の被害はなかなかなくならないそうです。
原爆の被害と同じ影響が続くようです。アメリ
カ軍は「日本に原爆を」「ヴェトナムに枯葉剤
を」「ラオスにクレスター爆弾を」等々悪事ば
かりしてきているのを感じます。
いま、安倍晋三は「原発を拡散する」という悪
事に手を染めています。金儲けだけでなく被
害者に目を向けて人々が幸せになる政治を
望みます。
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病院の関係者の方から現状を聞きました。生ま
れる前に胎児に異常が出ているときは中絶をし
ているので、数は減ってきているが、地方では
まだ除染が終わっていないので、まだまだ続く
ようです。
今大事にしているのは、一人ひとりの能力を伸
ばして自立できるように指導しているとのこと
でした。絵画の能力が発揮できた子どもや水泳
で記録を出した子どもも出てきているそうです。
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この病院で事務の仕事をしている「ドクさん」
を囲んで集合写真を撮影しました。ドクさんは
結婚して2人の子どもを授かり、日本との交流
を深めているそうです。東日本大震災のときも
来日し被害にあった障がい者と交流したそうで
す。
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ホーチミン市の現地ガイドのズンさん
(Mr Tran Tien Dung、サイゴン・ツーリスト)
を撮影
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統一会堂で集合写真
1873年「フランス領インドシナ」の植民地
時代に建造された。1945年までのコーチシ
ナ(当時のヴェトナム南部の呼称)時代は、フ
ランス総督の建物として利用された。このとき
は、「ノロドン宮殿」と呼ばれた。
1954年のディエンビエンフー陥落後、フラ
ンスが撤収し、1955年のベトナム共和国
(南ベトナム)成立した後には「独立宮殿」と
呼ばれた。
1962年ゴ・ディン・ジエム政権へのクーデ
ターの際に、爆撃を受けて大破した後、196
6年に再建された。
その後は、南ベトナム大統領府・官邸としてグ
エン・バン・チューなどが利用した。
1975年大統領府のフェンスを北ベトナム軍
の戦車が破り突入して、南ベトナムは陥落した。
1976年ヴェトナム社会主義共和国が成立後
は、「統一会堂」と名前を変えて博物館として
使われています。
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統一会堂の応接室
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統一会堂1階の講堂
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背景の絵は漆絵のようです。大統領府時代の
贅沢さが見られます。
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昼食にレストラン「SongNgu」に行きまし
た。左は「エビの春巻き」、右は「前菜」
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「ワイン蒸しのハマグリ」は、とても美味
しくいただきました。
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食後に、戦争証跡博物館へ行きました。
ベトナム戦争に従軍したカメラマンや沢田教
一などの報道写真家、戦場カメラマンの撮影
した写真が所狭しと展示されていました。
世界中から観光客が、ベトナム戦争の悲惨さ
を確認に来ていました。
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前庭には、ジェット機が展示されていました。
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たくさん写真を撮影しましたが、その中から
私の記憶に残る写真をここに選びました。
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ヴォー・グエン・ザップ将軍(1911年8月25日
−2013年10月4日)は、ベトナムの軍人、
政治家、ベトナム共産党政治局員。ベトナム
人民軍総司令官。最終階級は大将であった。
優れた軍事戦術家であったザップは、フラン
スの植民地支配の際、ディエンビエンフーの
戦いによって、フランス領インドシナからベ
トナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者と
してアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを
指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力
となった。その名采配から、西側諸国からは
「赤いナポレオン」と呼ばれ、ベトナム人民
からは「ベトナム救国の英雄」として、ホー
・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めた。
[ウィキペディアより抜粋]
また、文学者としての一面もあり、大島博光
訳の「不敗の村」がある。本が手には入った
ら読んで見たいものである。
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ベトちゃんとドクちゃんの写真は世界に衝撃
を与えたが、今回のツアー参加者の声で一番
感銘を与えた写真は、2人を見守るナースの
顔の優しさだ。本当に美しい笑顔である。
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ベトナム戦争に参加したフランス軍の兵士の
子どもにも枯葉剤の影響が出ている写真だ。
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アメリカ軍に追われて、泣きながら逃げる子
ども達で、少女の裸姿が印象に残る写真
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この博物館の横に展示されているコンダオ島
のトラの檻です。
1862年、コンダオ諸島(コンソン島)とメコ
ンデルタ南部は、フランスにより占領され、
それと同時に「収容所」の拷問が始まったよ
うです。ベトナム戦争中は政治囚が入れられ
ていました。数多くの人々が体制に反対した
理由で殺されていきました。酷い話ですね。
権力者とは惨いものです。
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同じくギロチン台
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監獄の中に食べ物もなく入れられ、拷問を受
けた様子を示す人形です。すごくリアルでし
た。
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最後に買い物をするために、ベンタイン市場
に行きました。私はバラマキ土産にチョコレ
ートを5箱も購入しました。
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最後の夕食はレストラン「Yeeboo」は、中華
料理です。「甘酸っぱいソースかけ豚ソテー」
は、ソースがうまかった。
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レストランを出ると、高層ビルの陰から満月
に明かりが輝いていました。帰りの夜行飛行
便の安全を祈願しました。お陰で無事帰国し
ました。
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