読書欄

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300.「砂丘の蛙」を読んで

柴田哲孝著の「砂丘の蛙」(光文社発行)を読んだ。
殺人事件を起こした崎津直也が刑期を終えて出所した直後に神戸で殺された。その直後、9年前に崎津を逮捕した刑事の片倉康孝も何者かに刺される。崎津から届いた手紙に書かれていた、「砂丘の蛙」という謎の言葉、戸籍には載っていない「妹」の存在。事件の渦中に巻き込まれた片倉は、捜査本部から外されても地道な捜査を続け、神戸、鳥取へと足を運ぶ。傑作推理小説。

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299.「クズリ」を読んで

柴田哲孝著の「クズリ」(講談社発行)を読んだ。
クズリとは、「小さな悪魔」とも呼ばれる獰猛なイタチ科の動物である。そのクズリの異名を持つ暗殺者が、十数年ぶりに日本に舞い戻ってきた。東京でウクライナの工作員が、横浜でハーブ屋の男がそれぞれ射殺され、警察庁外事情報部の中瀬は二件の殺しに麻薬が関係していることに注目し、犯人と見られるクズリの過去を洗い始める。同じ頃、覚醒剤の運び屋が韓国の仁川空港で摘発され、供給担当の男が金を持って日本に逃亡、潜伏する。その男を追って香港黒組織の殺し屋二人も日本に入国、闇に姿を消す。
男たちの思惑と意地が火花を散らし、危険ドラッグの横行、ウクライナ情勢などリアルな世界を背景に展開する超一流エンターテインメント! 長編ハードサスペンス。

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298.「Dの遺言」を読んで

柴田哲孝著の「Dの遺言」(祥伝社発行)を読んだ。
戦後、日銀の金庫から消えた 20万カラットのダイヤを追え! 昭和史最大の謎を解明した『下山事件 最後の証言』の著者が放つ、痛快エンターテインメント!
政府通達<十九機第二三五一号>――〝ダイヤモンド買い上げ実施に関する件〟 戦時中、軍需省の要請により立法化され、それに基づき皇室からも供出されたダイヤモンドがあった。その量、32万カラット。戦後は日銀に保管されていたが、その内20万カラットが占領のどさくさの中に消失。GHQのアメリカ軍将校が盗み出したとも、日本の政権運用資金に使われたとも言われていた。
東大教授にして歴史作家・浅野迦羅守は、戦後の特務機関・亜細亜産業に勤めていた曽祖父たちから、消えたダイヤの在り処を示す暗号文の遺言書を託された。しかし、捜索を開始するや何者かからの脅迫を受け、やがて敵の襲撃が……。

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297.「赤猫」を読んで

柴田哲孝著の「赤猫」(光文社発行)を読んだ。
定年間近の刑事・片倉康孝は、休暇を利用して小出と会津若松を結ぶ秘境のローカル線“只見線”に乗りに来た。
この旅は、20年前に練馬で起きた放火殺人事件の現場から消えた謎の女“鮎子”の足跡を探す旅でもある。現地で話を聞くと、練馬の事件のさらに40年前、羽賀鮎子という女性が火事で亡くなっていたことが分かった。二つの火事、二人の鮎子につながりはあるのか!?片倉は後輩刑事の柳井淳らと共に、ふたたびこの事件を追うことにした―。
過去に携わった迷宮入り事件の真相は!?謎が謎を呼ぶ傑作警察小説!

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296.「銀漢の賦」を読んで

葉室麟著の「銀漢の賦」(文春文庫発行)を読んだ。
「夏の雨」さんの感想から引用
2017年12月、66歳の若さで急逝した葉室麟の作家生活は長くはない。  2005年に第29回歴史文学賞を受賞した『乾山晩愁』を実質的なデビューとすれば、わずか12年の執筆活動となる。  『蜩ノ記』で第146回直木賞を受賞したのが2012年だから、この作品がほぼ中間点ともいえる。
 この受賞までに葉室の作品は何度も直木賞の候補になったが、落選を繰り返していた。  直木賞受賞に先立つ2007年に第14回松本清張賞を受賞したのが、この長編小説である。  この作品を読むと、すでに葉室にはその後の活躍を予感させるものが濃厚に立ち上ってくるのが実感できる。  文春文庫の解説を書いている文芸評論家の島内景二はその冒頭に「必ずや文学史に、その名を大きく刻まれるに違いない逸材」と記したが、今からすればまるで預言者のように言い当てたといえる。
 物語は三人の男の友情を描いている。  二人が武士、もう一人は村の若者。三人はその身分の違いがありながらも、互いに尊敬しあい、互いの心を推し量ることができる友誼の心を持っていた。
 しかし、成長するにしたがって、一人の男は家老職まで昇りつけ、もう一人の男は損な性格が災いしてか出世の道から取り残されている。そして、村の青年は村のために立ち上がるも武士の世界に阻まれて亡くなる。
 その事件をきっかけに二人の武士の友情も壊れ、長い歳月が流れる。  物語は仲違いしていた二人の男の再会を果たすところから始まる。  藩を守るために自身を犠牲にしてまで戦おうとする男に、かつての友が手を差し出す。  これはそんな友情の物語なのだ。  ちなみに「銀漢」とは「天の川」をいう。

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295.「従軍看護婦」を読んで

平松伴子著の「従軍看護婦」(コールサック社発行)を読んだ。
日赤で養成された看護婦たちには、卒業後二十年間(後に減じられたが)もの応召義務が課せられ、軍隊と同じ「赤紙」によって召集されてきた。
当時の新聞には、武装した看護婦の大きな写真と共に、「男は兵隊・女は従軍看護婦!」の記事が躍り、若者たちの心を戦地へと向かわせた。
アジア太平洋戦争に従軍された「従軍看護婦」に関する小説3篇を収録。

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294.「歌集・光のつぶ」を読んで

森暁香著の歌集「光のつぶ」(短歌研究社発行)を読んだ。
〈歌集より〉
硝子戸を背に立ちをればとんとんと陽に敲かるるやうな冬の日
昨夜おそく脱ぎたるままの黒色のロングブーツがガックリ折れて
ひとしきり紋白蝶は野に遊び空の奥処にまぎれてゆきぬ
穏しかる三十年とは思はねどみなやはらかき教へ子のこゑ
坂下るくだりつつ見ゆるものもあり白き芙蓉にうごく夕風
みづからの影を踏みつつ草を引くかかる平凡を繰りかへし来つ
「さしたることのない日常でも、森さんにかかると一首の歌になる。人生を丁寧に生き、丁寧に歌っているといったらいいだろうか。」(大下一真氏・帯文より)

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293.「東京脱出」を読んで

岸本竜二著の「東京脱出」(V2solution発行)を読んだ。
ちょっとした切っ掛けでパソコンの修理をして差し上げた久喜市の元議員さんから、自分で書かれた短編小説集を頂くことが出来た。
全部で8つの短編小説からなるのだが、前半の短編集は中学生の頃から書き溜めたそれぞれの時期の体験とエピソードが書かれているので、作者の人柄を知ることができて一気に読むことが出来た。「春に立つ虹」と「人間って何だ!」は作者が議員になる前に勤めていた教育現場での生徒との関わりや思い出を描いている。ここで、私の仕事と重なったこともあり、ついつい読み切ることもなく、本棚に仕舞われてしまった。
世界中のコロナ禍(2020年春)によって外出が制限されているこの時期に、妻は断捨離を始めた。最初にターゲットになったのが私の本だ。大量にあるこれらの本を処理することが迫られ、整理し始めた。3割は雑誌やハウツー物なので捨てたが、7割は捨てられない。そこで、山荘(「TOZ山荘」のページ参照)のガレージにミニ図書館を作り、そこに保管することを考えて、セッセせっせと車に積んで運び出している。今も続いている。6割は捨てないけどまだ読み切れていない、または読んでしまったが捨てられない本だ。
残りの1割の本は小さな本棚(自宅の机の横に残された)に並べて、少しずつ読み始めている。その第2弾に選ばれたのが、この「東京脱出」だ。短編の残りの中に、タイトルにもなった東京脱出編がある。これは短編というより、本格的な小説の体をなしている。大学を卒業して最初に務めた信用金庫での出来事が中心に描かれているのだが、ここでの出来事が作者のその後の人生に大きく影響しているのが感じられて、夢中になって読んだ。人生は失敗した後に大きく切り開かれていくことが分かった。捨てずに読んで良かったとお思っている。

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292.「さいたま謎学の旅」を読んで

山口勇著の「さいたま謎学の旅」(さいたま教育文化研究所)を読んだ。
前回読んだ「はじめての日本古代史」の埼玉版とも言える隠され忘れられた埼玉各地の歴史や事実に光を当て、丁寧に調べているまさに埼玉県人ならば読むべき名著だと思う。さいたま教育文化研究所のホームページの中で紹介していた本だが、ついに読み終えることができた。
30項目に及ぶ中で、特に惹かれたものをあげると、(3)「埼玉を襲ったカスリーン台風」(7)「日本の子守唄はなぜ、もの哀しいのか」(8)「三蔵法師の骨は埼玉にある」(9)「知ってますか埼玉人民戦線事件」(14)「なぜ多い、秩父のホルモン焼き店」(16)「栃木の中に埼玉がある」(17)「映画になった本庄事件」(21)「埼玉と朝鮮半島との1500年の歴史」(24)「あなたの家にジェット機が落ちたら」(27)「呑龍上人の足跡を追って」(28)「秩父暴動から秩父事件へ」などですが、他の項も全て興味深く読むことができた。
新型コロナ騒動が終熄したら、「大人の遠足」として訪ねてみたい候補地がたくさんできた。

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291.「はじめての日本古代史」を読んで

倉本一宏著の「はじめての日本古代史」(ちくまプリマー新書)を読んだ。
学校の教科書で学んだ日本史の中で印象に残る出来事は、1つに大化改新、2つ目に平清盛、3つ目に鎌倉幕府、4つ目に応仁の乱、5つ目に織田信長、6つ目に江戸幕府、7つ目に明治維新である。
長らくこれらの歴史を中心に日本史を見てきたが、どうも分からないところがいくつかあった。そこで仕事を退職した後、好きな読書を歴史物中心に読んでみることにした。かなりあちこちに飛んでいたが、大体読み終えると全体像が少しずつ浮かび上がってきた。
①大化改新はどうして起こったのか?その前の神代の時代なんて本当にあるのか?日本書記・古事記は誰が書いて本当のことが書いてあるのか?それ以前の風土記などの歴史書がないのは当時の日本人は読み書きができなかったからなのか?関西だけが文化があり、他の地域は何も文化がなかったのか?白村江の戦いなどの朝鮮出兵は本当にあったのか?
①だけ見てもこれだけの疑問が湧いてくる。これらを庶民に知らせない偽造して知らせたのはなぜなのか?こうした疑問から、難解な中国の司馬遷の「史記」を手書きのメモをしながら読み始めた。この中から、アジア東部の歴史の概要と歴史は勝者の記録集だと言うことを学んだ。そこで、日本書記・古事記は藤原不比等により作為的に作られ、それ以前の記録は概ね焚書された様だ。遺跡発掘がこの偽造された部分を明らかにし始めている。宮内庁などが天皇陵の発掘を禁じているのは、まずい証拠が出てくることを恐れているからなのだろう。
②関東では祟りの神として恐れられている平将門と平清盛の関係はなんなのか?③鎌倉幕府を支えた関東武士団の北条氏や三浦氏・千葉氏などの出自はどこからなのだろう?その読書の結果、源頼朝を支えた関東武士団はほぼ平将門の甥の平忠常の子孫であり、関東に武家の都(平将門は坂東市を考えていた)を作る夢を実現するためではないかと推測している。それゆえ、源氏を滅ぼして北条氏が執権となっているのも肯ける。歴史は面白い。
④応仁の乱の時代の足利幕府の位置がそれまでと比べて弱く感じるのはなぜか?朝廷が送り出した国司よりも武士の地頭が各地に送り出され実力を蓄えて大名(名は国の下の郡や郷の一部で大きな実力を蓄えたものを指す)になっていく。この子孫が地域で力をつけ、群雄割拠してくることにより、応仁の乱が生じている。ここで下克上の考え方も生じてきた。
⑤⑥⑦については、多くの作家が小説などに書いているので、楽しく読ませていただいっている。その中で、薩長幕府と東北軍事同盟との闘いの推移は興味をそそられた。
以上だが、特にこの本は、上の疑問に思っていた点をわかりやすく「はじめての日本史を学ぶ」高校生や大学生向けに書いている。そう言う意味で、学校や受験等の日本史の本よりも、この本を読むことをお勧めしたい。

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290.「我は景祐」を読んで

熊谷達也著の「我は景祐」(新潮社)を読んだ。
熊谷達也の作品は、<216>「氷結の森」と<247>「海峡の鎮魂歌」に続いて3冊目です。「氷結の森」の樺太と「海峡の鎮魂歌」の函館の東日本を中心にした作品に、「我は景祐」の仙台(作者の出身地)が登場し、戊辰戦争時の奥羽越列藩同盟の結成に尽力して敗れた若生文十郎景祐を描いたもので、地元ならではの調査が行き届いた作品になっている。熊谷達也の本は読み応えがある。コロナウィルスの流行っている3月の自宅待機中に読んでいる。

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289.「影踏み」を読んで

横山秀夫著の「影踏み」(祥伝社文庫)を読んだ。
「双子というものは、互いの影を踏み合うようにして生きている」……ノビ師・真壁修一の相棒は、父母とともに炎の中で死んだ双子の弟の「声」。
消せない過去を背負いながら、愛する女のために義を貫き、裏社会に葬られた謎に挑む、痺れるほどに哀切な「泥棒物語」。
累計50万部を突破した著者渾身の超1級クライム・ミステリー、待望の電子化!

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288.「一路(上下)」を読んで

浅田次郎著の「一路(上下)」(中公文庫)を読んだ。
父の死により江戸から国元に帰参した小野寺一路は、参勤道中御供頭のお役目を仰せつかる。
家伝の行軍録を唯一の手がかりに、いざ江戸見参!

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287.「曹操残夢」を読んで

陳舜臣著の「曹操残夢」(中央公論新社)を読んだ。
文帝となった曹丕と詩人として名高い曹植の兄弟、そしてその子孫たちが辿る運命は――。
曹家の興起と滅亡を描く壮大な叙事詩の完結篇。

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286.「失われた地図」を読んで

恩田陸著の「失われた地図」(角川文庫)を読んだ。
これはかつて失われたはずの光景、人々の情念が形を成す「裂け目」。かつて夫婦だった鮎美と遼平は、裂け目を封じることのできる能力を持つ一族だった。息子の誕生で、二人の運命の歯車は狂いはじめ……。

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285.「徳川忍法系図」を読んで

南原幹雄著の「徳川忍法系図」(徳間文庫)を読んだ。
三代将軍家光の命を狙う甲賀不動丸、守る伊賀組頭領服部半蔵。江戸城下を舞台に二組の忍者集団が繰りひろげる凄絶な戦闘の連続。

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284.「こちらあみ子」を読んで

今村夏子著の「こちらあみ子」(ちくま文庫)を読んだ。
第26回太宰治賞&第24回三島由紀夫賞 W受賞 読む人のたましいを揺さぶる、 芥川賞作家・今村夏子の衝撃デビュー作
あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示したデビュー作。短編「ピクニック」「チズさん」を収録。
解説:町田康・穂村弘
「いつか、たった一人の読者の手によって、ボロボロになるまで繰り返し読んでもらえるような物語を生み出すことができたら、どんなにか幸せだろうと思っています。そういう物語は、書く側が命懸けで臨まない限り決して生まれてこないのだと、今更ながら思い知った次第です。」── 今村夏子(太宰治賞受賞の言葉より)

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283.「室町無頼(上下)」を読んで

垣根涼介著の「室町無頼(上下)」(新潮文庫)を読んだ。
読むきっかけは、秋庭家の先祖を調べているとき、1476年ごろから備中松山城城主であった秋庭備中守元重(1476年〜1509年)が当時の室町幕府の管領(権力者)細川政元の側近として重用されていることが、「京兆内衆」の構成の中に記載されており、1507年細川政元が暗殺されると、1509年備中松山城を去って有漢郷に土着している。その後、1570年秋庭七兵衛は備中窪屋郡浅原村の庄屋として、1947年23代目で血脈は絶えている。
「しょうじゃく屋敷」(有漢村、秋庭元重子孫の邸宅跡)の近くにある供養碑があり、そこに元禄16年(1703年)秋庭重政の名が刻まれている。江戸時代に入って生活が安定してきたので、子孫の繁栄を祈念して自読法華妙典一千部を収めたと書いてある。1650年と推定すると、1570年までに浅原村へ移転し庄屋となった秋庭七兵衛とは異なり、そのまま有漢村にいた一族があったことがわかる。
また、懸案の秋庭家は1603年に秋庭大膳亮宗光(秋庭直政の四男の秋庭弥惣右衛門政国が下総国葛飾郡大山村を開き、その次男)が分家として、下川通および大膳新田を開発した功績で、川通神社に祭られている。まだこの頃は、利根川が東遷されていなかったので、古河と栗橋は地続きであった。秋庭政国が何らかの理由で、1570年以前に備中(岡山)を離れ、下総(古河)へ移動してきたことになる。なお、現在で秋庭宗光から数えて17代目になる。
私の推理だと、1510年頃〜1570年頃に有漢村の秋庭家は秋庭元重の願いで3つ以上に分かれ、長男家はそのまま有漢村に残り秋庭重政(「しょうじゃく屋敷」1703年頃)前後で衰退した。次男家は浅原村へ移転し庄屋として江戸時代を過ごしたが、1947年頃衰退した。四男家の秋庭政国は古河大山に移り、現在に至ると考えてはどうか?
そう考えると、この1510年頃〜1570年頃とは、人が移動するような大きな出来事があったと思えた。そこで、この「室町無頼」が当時の様子を教えてくれていて興味深かった。
歴史に登場しない「秋庭直政」が秋庭元重の長男で1530年頃子供達に移動を指示していたと思われる。この時期は、戦国時代の下克上の頃で田畑は戦場と化して生活が困難になっており、また子供達は武士として一旗揚げようと志していた時期でもあった。その様子が「室町無頼」に登場する。「武士にだけはならないように」という父の教えで、農業を生業にしたことが考えられる。

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282.「アップルを創った怪物」を読んで

スティーブ・ウォズニアック著の自伝「アップルを創った怪物」(ダイヤモンド社)を読んだ。
アップルと言うと、スティーブ・ジョブズが有名だが、この本を読んで初めて2つのことがわかった。1つは、パーソナル・コンピュータが出来上がっていく過程である。それも、私が働き始めた初期の1975年頃がそのスタート地点だった。お給料をはたいてPC6601を買ったことを覚えている。その頃ウォズニアック(通称ウォズ)によってアップルIの構想が出来上がりつつあった。そのアイデアが浮かんできた過程とジョブズと一緒に会社を起こす様子が描かれている。
2つ目は、経営者としてのジョブズと技術者としてのウォズの歩んで行く道の違いと、人生の目標などが描かれている。
カセットテープから8インチのフロッピーディスク・3.5インチのディスケットが出てきた頃や、BASICが盛んに使われていた頃などを思い出す。ジョブズがアップルから離れたのちに再び再登場してiPodとiTunesが大流行して、MacとWindowsの時代に入っていく様子などが分かった。
この頃、ウォズは教育福祉分野に勢力を注ぎ込んでいる。と同時に、ユニバーサル・リモコンの開発にも熱中したようだ。これがどうなっていくのかも楽しみである。リモコンのボタン1つで、あらかじめプログラムしておいた家庭内のあらゆる操作が連続的に自動でスタートする(いわゆるマクロのようなもの)というリモコンであるらしい。

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281.「芽むしり仔撃ち」を読んで

大江健三郎著の「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)を読んだ。
戦争中に感化院の少年たちが集団疎開をしていく道中の様子や、辿り着いた山や川に囲まれた山奥の村に疫病が発生し、村人が全員隣村に逃げていった後の様子などの創作をリアルに描いている。しかし、死体を埋めるのに駆り出された少年たちを拒絶し、その村に閉じ込められていく。主人公が、少女や弟や脱走兵や朝鮮人の少年などとの関わり合いの中で、心が揺れ動いていく様子を描いている大江作品の初期のものである。
15歳の少年の心の中を丹念に描写したことで、この後ノーベル文学賞を受賞することにつながる方向性ができたのだと思う。

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280.「神社の系譜」を読んで

宮元健次著の「神社の系譜〜なぜそこにあるのか」(光文社新書)を読んだ。
日本のあちこちを旅すると、必ず古そうな神社と寺院があります。有名な場所は情報がたくさんありますが、ほとんどは現場に行ってやっとわかる情報「立て札に書かれた情報」が分かりますが、いろいろな神様があってよく分からないのが現実です。

その辺を書いている本を探す中で、この本に出会いました。完璧とは言えませんが私の興味に対応していそうなので満足しています。そこで、目次と概要を書いてみます。

1)怨霊の神々・・・神田神社(平将門)、御霊神社(天皇家)、北野天満宮(菅原道真)
2)王権の神々・・・大神神社、吉備津神社、住吉神社、熊野本宮大社、熱田神宮
3)大和朝廷と東西線・・・鹿島神宮、出雲大社、伊勢神宮、日吉大社
4)氏族の守護神・・・春日大社(藤原氏)、厳島神社(海の民、平清盛)、京都の古社群(秦氏など)、鶴岡八幡宮(源氏)
5)人を神として祀った社・・・日光東照宮(徳川家康)、豊国神社(豊臣秀吉)、明治神宮(明治天皇)、靖国神社(自然暦を利用した巧妙な配置)

私が特に目を引いたのは、神田神社と吉備津神社と鹿島神宮と厳島神社と靖国神社の項目の箇所である。今後、訪ねて行く前に一読してから行きたいと思っている。

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279.「駒音高く」を読んで

佐川光晴著の「駒音高く」(実業之日本社)を読んだ。
179番の「おれのおばさん」以来の佐川光晴さんの作品である。この本も歴史もののマニアックな本ばかり読んでいる私に、妻が別な空気を吸わせようと図書館で借りてきたものだ。以前はブックオフで良くそうしてくれていたが、最近のブックオフには行かなくなったらしく、図書館からの借り物である。

本のカバーにあるように将棋な好きな七人の青春を描いた七人の短編小説です。
(1)「大阪のわたし」は、東京の将棋会館で清掃員として働く67歳の奥村チカ(8級)が、大阪の将棋会館へ見学に行った時の出来事と「大辻弓彦」少年(中学2年生)との出会い。
(2)「初めてのライバル」は、転校生の小学5年生の野崎翔太(アマチュア初段)が、朝霞こども将棋教室で小学2年生の山沢貴司(アマチュア2段)と対戦。塾長の奥さんから野崎くんへの励ましの言葉として「大辻弓彦」青年(高校1年生)の名前が出る。
(3)「それでも、将棋が好きだ」は、
(4)「娘のしあわせ」は、
(5)「光速の寄せ」は、
(6)「敗着さん」は、
(7)「最後の一手」は、将棋を指している最終盤にくも膜下出血で倒れた63歳の森川淳(B2級)のリハビリ後の復帰戦で2勝して本戦出場の権利を勝ち取るが、2勝目をあげるときに対戦した「大辻弓彦」棋士(4段)との対戦に思うところがあって引退を決意する。

どれを取っても短編なので読みやすく、そして将棋の世界の心象風景がわかる本である。将棋に興味を持った子どもたちに読んでもらいたい本でもある。

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278.「平の将門」を読んで

吉川英治著の「平の将門」(講談社・吉川英治歴史時代文庫46)を読んだ。
私が平将門の本を読み始めたのは、65番の「中世武蔵人物列伝」にふれて、この人物たちがどこから出てきたのかという過去の歴史(家系)に興味を持ったところから始まった。89番の「大利根百話」を読んだ際に利根川はいろいろな川筋を変化させながら現在に至る(1600年ごろに利根川東遷工事が始まったらしい)が、鎌倉時代以前の関東の地形と武士団の点在の関係はどのようになっているのか疑問が生じてきた。現在の関東地方の地形が昔から変わらずあったわけではないし、武士団もずっと同じ場所にいたわけでもない。もっとダイナミックに変化していることを感じて、もっと知りたくなったのだ。

102番と103番の「親鸞(上下)」と111番と112番の「親鸞・激動編(上下)」を通して、今は何も歴史がないように感じさせられている茨城県東南部(下妻・下舘・古河・岩井など)の昔に歴史を感じさせられた。川筋のサイクリングで見かけた石碑や寺院仏閣などたくさんあるのだが、何が書いてあり由来はなんなのかわからないのが悔しかった。まだまだ地理感覚が定着していない。

サイクリングで訪れた関宿城の売店で運命の本、184番の千野原靖方(せんのはらやすかた)著の「将門と忠常 坂東兵乱の展開」(崙書房出版)に出会った。この本から1000年前の関東地方の情況を把握できたことにより、関東武士団の歴史が理解することができた。しかしまだ、川や沼などの地理感覚がわからないことにより、動きが把握できないでいた。

210番の「図説 鹿嶋の歴史 原始・古代編」を求めて『大人の遠足』で三大神宮社(鹿島神宮・息栖神社・香取神宮)をまわり、ついに香取海の全貌が目に見えてきた。古代名の河川や沼を現代名と合わせるという楽しみをいっとき感じることが出来たが、まだまだ不明な河川が多い。248番の「夕顔将門記」で将門を唯一応援した叔父(香取海の南付近を支配していたので、大きな香取海により争乱の筑波地方と離れていた)の平良文(村岡五郎と名を変える)とその孫・平忠常や蝦夷の存在などの空気感が感じられるような気がしてきた。

そしてついに村上春樹著(小説家とは別人)の257番の伝説の名著「平将門伝説ハンドブック」と出会うことになる。将門ツアーを企画した際、講演をしてもらおうと考えて岩井市(現在は坂東市)のボランティア協会の方に問い合わせたが、90歳を超える高齢となり、すでに関宿城研究員を退職されていると聞いて断念したが、この本は全国の伝説地を足で歩いて記録した記事が非常にたくさん書いてあった。この本で神社仏閣の将門由来地を知ることが出来た。

同じ関宿城で、259番の「古代末期の葛飾郡」(崙書房)を購入し、さらに崙書房から直接277番の「飯沼新田開発」を購入することで、岩井から飯沼(昔は沼で、現在は田畑)にかけての地理感覚が研ぎ澄まされていった。私が企画した「将門ツアー」も一部呪いかと思われるアクシデントもあったが、無事踏破して足元から地理感覚が吸い上がってくるのを感じる。

そして、やっとこの吉川英治の名著「平の将門」にたどり着き、筑波山麓における軍馬の嘶きと粉塵が耳や目に見える思いで読み終えることが出来た。この本は将門研究初期の頃の本なので疑問な点(利根川の扱い、桔梗の存在など)もいくつかあったが、それにまして良い点は筑波山麓の地理感覚が確定できたことだ。将門の父親・平良持(良将とも)の居住地が豊田(現在の常総市石下町豊田)で、父の長兄の国香と息子の貞盛の居住地が石田(現在の筑西市東石田)で、父の弟・良兼の居住地が水守(現在のつくば市水守)で、父の弟・良正の居住地が羽鳥(現在の桜川市真壁町羽鳥)であり、初期に戦った源護と子3名の居住地が大串(下妻市大串)だということがわかった。最後に将門の最愛の妻子(桔梗の方と子)が国香に殺されたため、激怒の将門(上記の絵の様な顔)となるのだが、その場所が先日『大人の遠足』で飯沼新田開発ツアーをした時に通過した、崎房の秋葉家の先に位置していた芦ケ谷であった。当時は鬱蒼としたアシに覆われた深い沼地の場所だったので将門と離れて再起を期して隠れていたのだが、夕餉の煙により発見されてしまったという。知らずにすぐそばを訪れているのを妙に思う。

地図の説明だが、毛野川(鬼怒川)の水海道の上の青丸が豊田、筑波山の左の緑丸が石田、上の緑丸が羽鳥、下の緑丸が水守、下妻のそばの緑丸が大串、香取神宮の下の茶丸が良文・忠常の館、住田川の上流でのちに利根川が東遷する地にある赤丸が筆者の所在地、1730年ごろ飯沼新田開発される飯灘(飯沼)と将門が新皇になったときに都にする予定だった石井(現在の坂東市、「いわい」と読む。「将門ツアー」で訪問)には、赤枠で囲ってあります。印旛海は印旛沼で、手下海は手賀沼。干潟は椿湖となり埋め立てられて田畑となる。

武蔵国府から常陸国府(石岡市)までの間に馬を乗りかえる駅があった。武蔵府→豊島駅(豊島区、あれ東京23区が存在しない。家康の膨大な努力によって江戸が完成したことがよくわかる)→井上駅→下総江(下総国府か?市川)→馬野駅(流山か、松戸か?)→布瀬駅(柏市布施)→守谷→榛名駅→曽祢駅(土浦か?)→常陸府

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277.「飯沼新田開発」を読んで

長命豊著の「飯沼新田開発」(崙書房)を読んだ。
11月29日の大人の遠足で行ったコースの地図を一部下記に掲載しましたが、真ん中に水色系統で囲まれた部分が飯沼新田です。右側(東)の青色を流れる「東仁連(にれ)川」は、山川邸古民家(古河市管理)の側を通り、秋葉家(個人宅非公開)側から坂野家住宅(常総市管理)側を通り、最後は菅生沼に流れ込む川です。鬼怒川方面から流れ込む大水をここで防ぐ目的で作られました。しかし、それを越して戦後の排水ポンプが設置されるまで、たびたび洪水に悩まされました。
左側(西)の薄い水色を流れる「西仁連川」は、八俣送信所側から、逆井城址公園(平将門ツアーを企画した際、坂東市ボランティアさんから直接将門とは関係ないが、坂東市の管理している公園なので是非にと言われて、ツアーの一部に入れて観光した場所。偶然ここから見た美田が「飯沼新田」だったことが、私の関心を呼ぶきっかけになった大事な場所)側を通り、坂東市(昔の岩井市。平将門の遺跡がたくさんある)中心街の東を回って延命院(将門の胴塚がある。江戸幕府の開発視察団が宿泊した場所)側を通ってる菅生沼に流れ込んでいる。利根川(江戸時代初期1600年頃から掘削が始まり、渡良瀬川と合流し埼玉の権現堂川から今の江戸川に流れていた利根川を東遷し鬼怒川と合流して、千葉の銚子へ流した。鬼怒川と合流する前は「飯沼古川」につなげたのではと私は推測している。なお、「飯沼古川」の名前は私が勝手につけただけなので、果たして実在したかは不明)方面からの大水をここで防ぐ目的で作られた。作ったのが1730年ごろなので、利根川の水底の方が高く利根入川(現在は、菅生沼から利根川までの常総ゴルフ場そばの膨大な田んぼ部分)から逆流することがたびたびあったようだ。 排水ポンプ堤防跡が、茨城県自然博物館敷地内に残っている。
紫色のような真ん中の川が飯沼川です。東西の仁連川を1730年ごろ近隣の村が協力して掘削した(この歴史についてはこの本に詳しく書いてある。私も石下町にある豊田城2F図書館の資料で確認しました。)わけですが、当初はコメも豊作でしたが、この飯沼新田内に降った雨が排水ポンプのない時代では、なかなか湿地状態から抜けませんでした。そこで、次の策として飯沼新田の中を通る飯沼川(通称中堀)を掘り、坂東市幸田付近で西仁連川に合流させました。これでだいぶ排水が良くなったようですが、戦後の排水ポンプの登場まで苦労の連続だったようです。この飯沼川の南側は、もともと緩やかな坂であり、昔作ってあった排水路(古堀)が鬼怒川へ流れていっていたようです。
最後に、平将門の「将門記」には、飯沼は「広河之江」として描かれていたようです。また、開発の中心になった4名の名主を記すと、尾崎村左平太(のちに秋葉姓。地図上の秋葉家)、崎房村三太夫(のちの秋葉姓)、馬場村源治郎(のちの秋葉姓)、大生郷村伊左衛門(のちの坂野姓。坂野家住宅)です。幕府側で尽力した人は、1723年からは井沢弥惣兵衛(徳川吉宗が将軍になった時、紀州から溜池築堤工事の専門家として呼ばれ、新田開発の指導的役割を果たした人物)です。次に、天明の大飢饉(1788年)で農村の荒廃した時に、この飯沼新田でも同様であったが、この時代官となった岸本武太夫就美・荘美父子(松平定信が寛政の改革の一つとして、農村の復興策として有能な代官を投入したことにより、23年間活躍した)の功徳碑が沓掛にある。
追加として、恩納村の山川邸古民家の山川氏(詳細の歴史は後日)も、この飯沼新田開発には恩納村の名主として参加している。

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276.「日日是好日」を読んで

森下典子著の「日日是好日」(新潮文庫)を読んだ。
226番の「前世への冒険」を読んで、森下典子さんのファンになったが、同時に購入したこの本「日日是好日」は何故だかお蔵入りしていた。樹木希林さんが先日亡くなったことをテレビで取り上げていたときに、映画「万引き家族」と同時に映画「日日是好日」(10月13日公開)のお茶の先生「武田先生」役で出演していたことを知り、妻が引っ張り出してくれた。読んでみると最高に素晴らしい本だったので、3時間で読破してこれを書いている。
お茶の本ではあるが、柳家小三治が解説に書いてあるように、「天気の日も雨の日も、すべていい日」であり、「自分では見えない自分の成長」と「その接し方」を教えてくれる本である。
12月2日(土)待望の映画「日日是好日」を鑑賞した。初めは、樹木希林が亡くなったことに引きずられていたが、途中からだんだん武田先生に見えて来て、最後には主演の黒木華さんが著者の森下典子さんと一体化した。本と映画が同じような内容で見えたことに満足している。

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275.「神武天皇vs.卑弥呼」を読んで

関裕二著の「神武天皇vs.卑弥呼ーヤマト建国を推理する」(新潮新書)を読んだ。
178番の「蘇我氏の正体」(関裕二著)で、ほぼヤマト建国の謎に迫ったのだが、まだいくつかの謎が残っていた。それに鋭くメスを入れたのが、今回の作品である。遺伝子工学で解明された「スンダランドの海の民」がこの本の謎解きのきっかけになっているのが面白い。
全て書き出すことができないので、本の各章のタイトルを記載して再度読むときの参考にしたい。
①ヤマト建国三つの奇跡(奴国が後漢を後ろ盾にしたことが、危機感から縄文日本各地の結束を進め、ヤマトの地の纏向に政権を置いたように思う。)
②纏向(まきむく)ではなく橿原(かしはら)に陣取った神武の謎(纏向に祟神天皇が、橿原に神武天皇「応神天皇」が居を構えたようだ。橿原近辺には応神天皇に付き添って大伴氏や久米氏が定住したようだ。)
③奴国の末裔・阿曇氏(あずみ)と天皇家の秘密(阿曇氏は海の神を祀っている。天皇家の神話には海の一族が登場する。応神天皇たちは奴国の末裔と手を組んだと思える。)
④縄文から続く海人の歴史とその正体(ここにスンダランドの話が出てくるので、興味津々である。)
⑤神功皇后と卑弥呼、台与(北九州の二大勢力である奴国と伊都国は後漢との関係で巨大化したが、争いが続く中、邪馬台国の卑弥呼と手を組んだ伊都国が勝利する。邪馬台国として魏を後ろ盾にするが、敗れた奴国がヤマトと手を組み、仲哀天皇と神功皇后たちを北九州征伐へと導き入れ、邪馬台国の卑弥呼を殺害する。神功皇后は奴国の推挙で台与として魏からも後押しされて北九州ならびに日本海勢力の代表として君臨する。その頃のヤマト政権は勢力を伸ばした吉備の物部氏が中心を担って来ており、魏が滅んだ時期に、チャンス到来で瀬戸内海・ヤマト勢力が日本海勢力を打ち破る。敗れた神功皇后と奴国の末裔たちは南九州のスンダランドの海人である隼人を頼って南下する。)
⑥神武天皇と南部九州(神功皇后の子である「応神天皇」は、日本書紀では神武天皇として、ヤマトの橿原に移住する。これが東遷説だが、どこにも争いの跡は残っていない。どうやら、吉備一族のヤマト政権の祟神天皇の時代、疫病などで人口が急減し、人々の口には「神功皇后の祟り」として考え、それを鎮めるために橿原に来てもらったらしい。その周辺には隼人の警護が力を振るっていた。その中心として蘇我氏が登場してくる。)

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274.「中国古代史研究の最前線」を読んで

佐藤信弥著の「中国古代史研究の最前線」(星海社新書)を読んだ。
中国の古代史は、司馬遷の書いた史記を読んだ時まとめた137番の「史記(一)本紀」の私のメモにあるように、かなり興味を持っている。関連する本もその前後で読んでいる。ただし、それが事実かどうかには疑問符を持っていた。20世紀後半に入って、遺跡の発掘が進んで出土文献(甲骨文、金文、竹簡、帛書など)が発見され、その読解が進む中で「殷(いん、商)」の殷墟の場所が特定されるなど、1928年から15次にわたって中国人自身の手で歴史の見直しが進んでいる。
この本は日本と中国の考古学の学者を中心に、その発掘の最前線の情報を紹介してくれている。そこで、年表風にまとめて見た。
中国人日本人概要
司馬遷前漢の武帝の頃、「史記」
許慎後漢、説文解字
王懿栄
劉鶚
范維卿
清朝末期、漢方薬(龍骨)を買い求める
「鉄雲蔵亀(1903年出版)」
商人
范維卿
端方
王襄
孟定生
清朝末期、骨董品として売買
孫詒譲清末の大学者、「契文挙例(1904年出版)」
「墨子間詁」「周礼正義」
「古籀拾遺(金文の注釈書)」
林泰輔「清国河南省湯陰県発見の亀甲牛骨に就て
(1909年論文発表)」
「亀甲獣骨文字(図録出版)」
羅振玉
羅振常
1911年湯陰県の小屯村に殷墟を発見
振玉の弟
羅振玉
王国維
董作賓
郭沫若
甲骨四堂
濱田耕作日本考古学の父、「歴史学と考古学は両輪」
を主張
羅振玉林泰輔羅振玉の「殷商貞卜文字攷」は林泰輔の上記
の論文に刺激を受けたと自序に記載
王国維内藤湖南王国維の「殷卜辞中所見先公先王考」
(史記の殷王やその先公の系譜の確認)
と内藤湖南の「王亥」は互いに刺激し合う
王国維1925年、中国古代史の研究手法として
「二重証拠法」を提起
董作賓
李済
梁思永
郭宝鈞
石璋如
夏鼐
胡厚宣
1928年、国立アカデミー中央研究院歴史
語言研究所考古組により殷墟の発掘開始
(以降15次にわたる)
白鳥庫吉東京帝国大学の学者、「尭舜禹抹殺論」を
展開し、批判的だった
小川茂樹のちの貝塚茂樹、湯川秀樹の弟
1943年東京帝大で行なった講演で殷代の歴史
を肯定(以降流れが変わる)
徐旭生1959年二里頭遺跡を夏王朝の都と比定
宮崎市定1977年出版の「中国史」で懐疑論を展開
白川静「甲骨文の世界」
落合淳思殷王の系譜は政治的要請により改変されて
いることを指摘
宮城谷昌光「重耳」「晏子」
藤崎竜
原泰久
殷と周の戦い、コミック「封神演義」
戦国末期の秦、コミック「キングダム」

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273.「怒る富士」を読んで

新田次郎著の「怒る富士」(文春文庫)を読んだ。読み進むにつれ、主人公の伊奈氏の歴史を調べたくなった。先日パソコンのアドバイスに行った川口市の知人宅のすぐそばに、伊奈氏の陣屋と菩提寺があることがわかったので、訪れたくなった。45年前に一時住んでいた鳩ヶ谷市や長く勤めていた勤務地のあった草加市などでも、度々「赤山街道」を話題にして園芸店「しばみち」に買い物に行ったりしていた。まさかその裏手に赤芝山の関東郡代陣屋(8町歩の広さ)があって現在は壕跡が見学できるようになっているらしい。
大きさを調べてみた。1歩(ぶ)=1坪、1畝(せ)=30坪、1反(たん)=1段=300坪、1町(ちょう)=1ha=100m四方=3000坪。ということは、8町歩は24000坪で東京ドーム1.7個分に当たるようだ。安行の森なども含んでいたのだろう。
菩提寺は、源長寺で、代々の伊奈氏の墓がある。主人公の伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)の墓もここにある。首都高川口線の川口PA付近のイイナパーク川口の公園はたぶん伊奈氏の赤山城址に作られたものと思う。

伊奈氏は徳川家康についてきた三河武士で、関東郡代という関東全域の代官を統括する役人であったが、土木工事や災害普及工事などを代々積極的に行う家系だったので、関東各地に伊奈氏の業績記念碑が残っていると思う。江戸時代の拡張工事と災害対策を考える上で、特筆すべき人物だろう。現在の安倍一強内閣の無能ぶりは当時の徳川幕府の首脳陣と同じように思えてならない。その中で、一人奮闘し農民・災害民のために法を犯しても米の配布を実行して切腹に追い込まれた伊奈忠順が哀れでならないが、そこから学ぶべき事柄はたくさんあるだろう。
ちなみに当時の幕閣を列挙すると、徳川綱吉を支えた側用人で大老の柳沢吉保、勘定奉行の荻原重秀(金貨の改鋳などをすることで経済の立て直しに活躍)、大目付の折井正辰(スパイ組織の元締め)の甲斐武田系列の3人が事実上幕府を動かしていた。それに対して、家康直系譜代の老中の大久保忠増(ただます、先祖の大久保忠世の弟・大久保彦左衛門が有名)や老中の井上正岑(まさみね)、勘定奉行の中山時春、目付の河野勘右衛門らが、宝永4年(1707年)11月23日の富士山噴火による災害対策を巡って対立する中で、伊奈忠順のみ奮闘する話を書いた本である。昭和7年から12年まで富士山頂観測所の交代勤務員をしていた新田次郎ならではの作品である。

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272.「Raspberry Pi で学ぶ電子工作」を読んで

金丸隆志著の「Raspberry Pi で学ぶ電子工作」(講談社BLUEBACKS)を読んだ。私のお気に入りのユーチューバー(パソコン関係の方が多い)が最近取り上げることが多くなったRaspberry Piに興味を持ち、購入した。本の表紙にあるようにかなり小さな基盤だが、これでパソコンと同じ性能を持っているから驚きだ。その上、GPIOポートという40本の端子が出ているので、電子工作での命令が可能となるから驚きだ。驚きが2回続いたところで、プログラム言語のPythonの学習もできるようになっている。この本のサイトにデータがダウンロードできるようになっているので便利である。

私はとりあえず、この本の目標である「キャタピラ式模型にこのPC(Raspberry Pi)を積んで、プログラム通り動かす」を実現したいと思っている。カメラモジュールもついているので、カメラで判断しながら動かすこともできるのだろうか?このPC(Raspberry Pi)は、中高生などの電子工作として今後利用されて行く感じがする。キットと本も入れて、1万円強で購入できる点も安価で良い。ちなみに、OSのLINUXの勉強にもなるだろう。

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271.「自民党ひとり良識派」を読んで

村上誠一郎著の「自民党ひとり良識派」(講談社現代新書)を読んだ。「ビブリオバトルinぼんとん」で、ぼんとんさんが推薦した本であり、私の最近の研究である「村上水軍」の子孫で、自民党の誰ひとり反対できない安倍内閣への批判をしていることもあり、是非読んで見たいと思って本をお借りした。

現在の忖度しかしない行政と、自民党総裁を批判できる議員のいない現在の自民党と、平気で憲法を変えてトランプの顔色しか伺わない安倍晋三という人物と、経済政策の失敗が日本人の上に襲いかかってくる直前の現在などについて詳しく書かれており大変勉強になった。
1986年頃の自民党には、5大派閥(宏池会、木曜研究会、十日会、春秋会、政策研究会)があって、そこで新人議員の養成が行われ、政策実現のために議員一人ひとりが意見を言えるようになっていった。「宏池会」からは、池田勇人・大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一・河野洋平・加藤紘一・古賀誠・谷垣禎一・岸田文雄などのリベラル派の実力者を輩出した。「木曜研究会」からは、佐藤栄作・田中角栄・竹下登・小渕恵三・橋本龍太郎・小沢一郎・羽田孜・額賀福志郎を輩出し、田中派・経世会と呼ばれてきた。「十日会」からは、岸信介・福田赳夫・安倍晋太郎・三塚博・森喜朗・小泉純一郎・福田康夫・安倍晋三を輩出し、途中から清和会(清和政策研究会)という右派の流れを引き継いでいる。「春秋会」は、河野一郎・中曽根康弘の後に衰退し清和研に吸収された。「政策研究会」は、三木武夫・河本敏夫・海部俊樹・高村正彦・大島理森・山東昭子です。著者の村上誠一郎は、2010年に高村派時代に退会している。
小泉純一郎政権の時に、ポピュリズム(populism、大衆に迎合して人気をあおる政治姿勢)による小泉旋風で、経世会は衰退し、清和会オンリーの政権となっていく。その後、小選挙区制度では、官邸主導による候補者選びのため、イエスマンが登場し、小泉チルドレンや安倍チルドレンは不倫や問題発言など問題児が続出している。また、公務員法改正により、内閣人事局が中央官庁の幹部職員約600人の人事管理を一元化したため、出世のために「忖度」が主流となっていく。首相秘書官は、従来「財務省」というシンクタンクから派遣されてくる慣わし(良きにつけ悪しきにつけ)だったが、このポストに今井尚哉(資源エネルギー庁次長)をつけ、「NOが言えない官僚機構」を作り上げた。
この本は、現代政治史を紐解く資料として大変役立つだろう。最後に、さすが村上水軍の末裔だと思った。

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270.「屋根をかける人」を読んで

門井慶喜著の「屋根をかける人」(角川書店発行)を読んだ。「ビブリオバトルinぼんとん」で文ちゃんが推薦した本であり、私の知人が「近江兄弟社」関係に勤務していることもあり、その設立当時を取り上げた本だと聞いて、是非読んで見たいと思った。

明治38年(1905年)に、アメリカYMCAからキリスト教伝道者として派遣された青年ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、滋賀県の近江八幡にある滋賀県立商業学校の英語教師として赴任した。その最初に、自宅をバイブルクラスとして立ち上げる時に、バイブルクラスを指して、「家には屋根がある。どんな人でもひとしく風雨から身を守り、その下に暖かい団欒の場を作ってくれる。いずれ地球を覆う広大な1枚の屋根をかける人になりましょう。」と演説したところから、この題目ができたようだ。

商売に長けていたメレル先生は、バイブルクラスを広げ、建築の世界に洋風建築を広げ、教会やYMCA施設を次々に請負い作っていく。戦前にメンソレタームを万能傷薬として売り出す。結婚した華族の娘・満喜子と手を携え、幼稚園教育や学校教育にその活動の場を広げていく。近江兄弟社として発展の礎を作った人物であった。その行動力には目を見張るものがある。

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269.「渡来氏族の謎」を読んで

埼玉県の高麗町や白村江の戦いや蘇我氏のもとに集まった百済の人々や太秦に関わる秦一族の話など、歴史の本を読んでいるとたくさん出てくる渡来氏族について興味が湧いていたときに、巡り合った加藤謙吉著「渡来氏族の謎」(祥伝社発行)を読んだ。

 朝鮮半島では、紀元前後の頃に勃興した高句麗が南進策をとり、4世紀初頭には中国の直轄地である楽浪・帯方2郡を滅ぼした。南朝鮮の韓族は、馬韓・辰韓・弁韓の3地域に分かれて小国群を形成していたが、これに刺激を受けて、4世紀中頃には馬韓から伯済国(百済)、辰韓から斯盧国(新羅)が興り、周辺諸国を統合して政治的統一を達成する。
 朝鮮半島南部の弁韓だけは小国分立の状況が続き、弁韓に代わって伽耶(加羅)と呼ばれるようになったが、伽耶諸国の中では、金官国や安羅が有力国で、5世紀後半になると大伽耶国が台頭する。
 こうした中、倭国は4世紀後半以降、朝鮮半島情勢に積極的に介入するようになり、高句麗・百済・新羅や伽耶諸国と外交・軍事両面で直接向き合うようになった。その後、長期にわたって諸国間の利害関係が錯綜、互いに連携・対立・抗争を繰り返し、6世紀には伽耶、7世紀には百済と高句麗が滅亡する。
 この間、倭国は朝鮮半島に対する影響力を次第に失い、半島をめぐる政治的混乱は、倭国を巻き込みつつ、7世紀後半・末まで継続する。そして、このような混乱と連動する形で、約300年間、朝鮮半島から多数の人々が海を越えて日本列島に移住してきた。
 弘仁6年(815年)に成立した「新撰姓氏録」は、平安京と畿内5カ国居住の1182氏の氏族の本系を掲げる。そのうち「諸蕃」(渡来系)は、326氏である。出自のわからない氏族を含めると、渡来氏族は平安初期には3分の1を超えるものとみて間違いない。古代の日本社会に、いかに多くの渡来人が存在したかが読み取れる。
 300年あまりにおよぶ移住期間には、3回ほど大きな渡来のうねりが生じた時期があった。いずれの時期も、朝鮮半島の動乱の時期と重なる。
 1回目は、4世紀末から5世紀初頭。倭が建国まもない百済と連携し、伽耶方面から新羅に侵攻。新羅救援のために南下した高句麗好太王の軍隊と激突した時期である。
 2回目は、5世紀後半から6世紀初頭。475年、百済の王都漢城(ソウル)を襲った高句麗の侵攻。百済は、倭の力を借りて国の再建をはかり、出兵した倭や新羅・伽耶の動向とあわせて、しばらくの間、朝鮮半島南部の政情は激動した。
 3回目は、7世紀後半。百済は唐・新羅の連合軍の攻撃を受けて滅亡、鬼室福信や百済の王子余豊璋らが中心となって再興運動が起こった。倭も救援のために出兵するが、663年の白村江の戦いで惨敗、百済救済は完全に頓挫した。続いて668年には、唐・新羅により高句麗が滅ぼされる。
 政治的亡命、強制的移動(倭国の要請による技術者・有識者などの贈与、戦争俘虜の連行)など、理由はそれぞれ異なるが、以上の3つの時期をピークとして、朝鮮住民の日本列島への移住は継続的に行われた。

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268.「茨城県の歴史散歩」を読んで

 茨城県地域史研究会(茨城県の高校の歴史の先生方が中心となっている会)が地元密着型の調査による記事なので、一つ一つが読み応えのあるものとなっている。山川出版社という歴史教育に定評のある所からの出版でもあるので、安心して読み込むことができた。(最近は偏った歴史教育を進める出版社もあり、困ったことである。)
 この本に出会ったのは、次のようなことからだ。先日、先輩のY先生と会った際、私は今茨城県の歴史で「平将門」を調べているという話をしたところ、Y先輩は以前「天狗党」の歴史を調べていたそうで、その時に愛用していた本があるからあげるというので、有り難く頂いた。
 「将門」絡みで色々調べていた場所もあり、たちまちこの本の記述の正確さに虜になってしまった。また、Y先輩がマーカーを引いてある所を眺めていると、実に興味深い。それらを目で追っているうちに、茨城県の歴史がなんと奥深いことか知ることができた。地味と言われている茨城県だが、とんでもない歴史の宝庫である。一晩で概ね読んでしまった。

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267.「マンガ日本の歴史がわかる本【古代〜南北朝時代】篇」を読んで

 責任監修:小和田哲男、作画:小杉あきらによる「マンガ日本の歴史がわかる本【古代〜南北朝時代】篇」(三笠書房発行)を読んだ。

 このところ連続して漫画本を楽しんでいる。一般に言うマンガとは違い、思想や人物伝や歴史を分かり易く伝える道具として映画や動画と並んで漫画本が浮上してきている。1コマの絵の中に1年分の歴史の動きが取り込まれているのにはビックリである。文章から匂いが沸き起こるのと同様に、1コマの漫画から動き回る様が感じられる。

 ということで、古代から南北朝までの歴史を小和田哲男さんの監修の下に描かれたこの本を読んだ。幾つもの謎だった事柄を学ぶことができた。「明治維新」尊重の政府による偏った歴史観から脱却できる本である。
 秦の始皇帝の命により不老不死の薬を探しに日本に来た(BC219年)徐福の話から始まる。稲作や鉄器の伝来の由縁を「徐福伝説」に目を向けたのは一考に値すると思う。また、縄文時代中期の人口が26万人(東日本25万人、西日本1万人)と言われており、寒冷化の進んだ晩期には全体で7万5千人となっていた日本が、紀元前3世紀の稲作と鉄器の伝来以降(弥生時代が始まる)、北九州地方から人口が急増していく。
 「魏志倭人伝」の読み方も取り上げており、伊都国を起点に四方に数える放射状説で畿内説を論破し、邪馬台国までの行程日数を魏の帯方郡からの合計として数えるというを考え方で、「吉野ケ里遺跡一帯」を邪馬台国として推定している。
 他にも面白い歴史の展開を見て取ることができた。チャンスがあれば続編(【室町・戦国〜江戸時代】篇、【幕末・維新〜現代】篇)も読んでみたい。

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266.「イーハトープ農学校の 賢治先生」を読んで

 作画:魚戸おさむ、原案・監修:佐藤成による「イーハトープ農学校の 賢治先生」(小学館発行)を読んだ。

 宮沢賢治の童話などは有名であるが、彼の農学校教師時代のことは詳しくわからなかったが、このマンガ本は分かりやすくその様子を伝えている。彼の作品の多くが、農学校の宿直室で書かれたことや、4年かしか在職していなかったことや、彼の実家の様子(最近出版された門井慶喜著の「銀河鉄道の父」では詳しく書かれているようだ)や、退職後の農民としての生活と活動ぶりが垣間見られる。
 内容も豊富で参考になることが多いと思い、この本を注文した。中古品だが、定価の倍以上の値段がついている。次女の嫁ぎ先の秋庭農園の役に立つように贈呈した。

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265.「マンガでやさしくわかる アドラー心理学」を読んで

 作画:深森あき、監修:岩井俊憲、シナリオ製作:星井博文による「マンガでやさしくわかる アドラー心理学」(日本能率協会マネジメントセンター発行)を読んだ。

 マンガによるアドラー心理学は「コーチング」の考えと同じなので、わかりやすく読むことができたが、途中に書いてある解説の文章は難しく読む気力がなくなった。日頃から心理学に造形が深い人は読めるのだろうと思った。そこで、遅まきながらWikipediaにある「心理学」の「心理学の創世記」と「精神分析」を勉強してみた。(感想としては、哲学の勉強をしている時の気分を思い出した。)

 18世紀には、フランツ・アントン・メスメルが、動物磁気説(英語版)による治療行為を行い、1779年に『動物磁気の発見と回想』を出版し、後の催眠へとつながっていった。心理療法におけるラポールの概念などもこの流れで生まれた。
 1870年代には、ドイツのヴィルヘルム・ヴントと、アメリカのウィリアム・ジェームズは、心理学の研究室を設け、心理学の諸理論を提唱した。ドイツのヴィルヘルム・ヴントが実験心理学の父と呼ばれ、アメリカのウィリアム・ジェームズも心理学の父と呼ばれることもある。
 ヴントは1879年にライプツィヒ大学に研究室を創設し、彼の言う実験心理学とは、内観として自己観察的な思考や感情の出来事を記録することであった。
 ジェームズは1875年にハーバード大学にて講義をはじめた。内省や哲学に基づいたアプローチで心理学に接近した。1890年にはジェームズが大著『心理学原理』を公開し、その2年後にはこれを短縮した『心理学要論』が公開され教科書として広まった。1892年には、アメリカ心理学会が、ウィリアム・ジェームズの心理学を元にして設立される。

 1880年代には、フランスのエミール・クーエが偽薬効果についての『自己暗示』を出版する。1900年には、ドイツのウィーンで、神経症とヒステリーの研究を行っていたジークムント・フロイトは、人々は無意識の影響を受けて行動しているという理論を公表する。
 1885年には、ジークムント・フロイトはパリに行き、催眠によってヒステリー患者を治療しようとしていたシャルコーの下で学び、同僚と共に1893年に『ヒステリー研究』出版したが、その限界を感じ自由連想法を用い始めた。1894年以降、フロイトは精神分析学の基礎となる理論を発見し、1900年には『夢判断』を出版してその初期の理論を公開し、1902年には、ウィーンの医者が群れとなって精神分析学研究のセミナーに参加し比較的短期間で世界規模となる。

 最初の国際精神分析学会は1908年、最初の『国際精神分析学雑誌』は1909年に出版されたが、追従者のアドラーは1910年に、ユングは1913年にはフロイトの下を離れていった。アルフレッド・アドラーは1910年には国際精神分析学会の会長にも推薦されていたが、フロイトのリビドー(性欲)の理論を受け入れず、翌年には個人心理学会を設立した。1916年までは精神分析学の研究はドイツ語圏に限られており、アメリカやイギリスに飛び火したのは、1918年以降であり、1920年には『精神分析学入門』が翻訳され読者を広く読者を得、ニューヨークの研究所は1931年に開設された。

 娘のアンナ・フロイトは自我心理学を提唱した。フロイトに師事したカール・グスタフ・ユングは分析心理学を提唱、ユング心理学はユング派としてアメリカでプロセス指向心理学などを生んだ。この時代には、フロイトや現象学の影響をうけたルートヴィヒ・ビンスワンガーの現存在分析、また ヴィクトール・フランクルによるロゴセラピーがある。対人関係療法は、新フロイト派とよばれるハリー・スタック・サリヴァンらの流れを組む。

 イギリスではメラニー・クライン、ドナルド・ウィニコットらの対象関係論が展開し、アメリカでは対象関係論に影響をうけたオットー・カーンバーグが転移焦点化精神療法を考案した。
 ハインツ・コフートは、自己愛性パーソナリティ障害の研究者として著名で、ウィーンの出身だが1964年にはアメリカ精神分析学会の会長も務めた。

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264.「トゥイーの日記」を読んで

 ダン・トゥイー・チャム著(高橋和泉訳)の「トゥイーの日記」(経済界発行)を読んだ。

 一昨年(2016年)11月に、埼玉AALAの平和の旅で「鈴木勝比古さんと行くベトナム旅行」を体験して以来、現在のベトナムやベトナム戦争中のベトナム、沖縄の米軍基地問題、日米安保がもたらす表と裏etc.が、私の意識の上にしっかりと足を開いて立った気がする。平和ボケした日本や真実を伝えないマスコミや政府の中にいると、オブラートに包まれた毒薬を飲まされている感じがする。「世界の真実を自分の目で見て来ることの大切さ」を感じている。

 今回読んだ「トゥイーの日記」は2008年8月に発行され、ベトナムや日本で話題になった本だったようだ。と言うことを今回初めて知った。2005年4月に突然アメリカから送られてきた35年前(1970年)にベトナム戦争でなくなった娘トゥイーの日記である。当時ベトナムに駐留したアメリカ軍の情報部の若き日のホワイトハーストの任務は、収集した資料を調査し、軍事的価値のないものは処分するという仕事をしていた。当時通訳のヒュー軍曹から、その日記を読み聞かせられたホワイトハーストは、日記の中のトゥイーに恋してしまい、日記を米国に持ち帰り、書庫に保存していた。長年務めていたFBIを退職した彼は、この日記を家族に返そうと思い立ち、弟ロブ(ベトナムの女性と結婚)と翻訳を開始した。その結果、家族の元に届くと同時に、ベトナムでは50万人の人々が号泣したという。

 ドゥックフォー(ベトナム中部、フエやホイアンよりもう少し南部)の診療所に赴任したトゥイー(ハノイ医科大学眼科の研究をしていたが、卒業時の1966年南ベトナムの激戦地で勤務することを選ぶ)の25歳から27歳までの日記である。27歳の1970年6月22日に、診療所の患者や同僚を守るために、120名の米兵を相手にたった一人で機関銃を打ちまくり、額に銃痕を残して亡くなっている。持っていた布袋の中に患者のカルテがあったため、トゥイーであることが判明した。

 日記の中身は、ごく普通の若い女性が抱く恋の悩みや、職場の中のいざこざで悩んでいることや、治療を続けながら看護学などの指導もしていることや、南ベトナムでの次々に米軍に殺されていく現状と北ベトナムでの娘時代の平穏な暮らしが交差して思い出していることなどが綴られている。6月20日に日記が途絶えると言うことは死んだということである。あまりもの不条理に涙した。

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263.「海のホーチミン・ルート」を読んで

グェン・ゴック著(鈴木勝比古訳)の「海のホーチミン・ルート」(富士国際旅行社発行)を読んだ。

沖縄高江の映画「標的の村」で思い出されるのは、ベトナム戦争における1966年発刊の「不敗の村」です。このベトナム人従軍作家のグェン・ゴックさんが、ベトナム戦争時のアメリカ軍や韓国軍からの攻撃に耐えながら物資の海上輸送ルート開拓に活躍した名もない戦士たちの活躍を記録するために、1975年ベトナム終戦以降、各地を訪ね歩きまとめた本である。

埼玉AALAベトナム平和の旅に、鈴木勝比古さんをガイドで行った際、3日目のホイアンのホテルの会議室に、地元のファン・チュ-・チン大学理事長のグェン・ゴックさんに来ていただき、ダイオキシンを大量に含む枯葉剤の除染の話(原発事故の汚染土の除染とよく似ている)やソンミン虐殺事件やクァンナムのたたかい、「不敗の村」(大島博光訳)や「サヌーの森」の話など知らないことばかり話していただいたのが思い出になっています。

そのグェン・ゴックさんの著作、鈴木勝比古さんの翻訳でこの本が出版されたので、早速購入しました。最初は、地名や人名がよく分からなかったのですが、訳注を合わせて読んでいくうちに、最後には訳注なしで読み終えることができました。山の「チュオンソン・ルート」以外に知られていなかった海の「ホーチミン・ルート」の話です。

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262.「第四版観光コースでない沖縄」を読んで

「第四版観光コースでない沖縄」(高文研発行)を読んだ。

埼玉AALA沖縄平和の旅の紀行文を書くにあたって購入した本です。タイトルにあるように、観光コースにはない沖縄の過去の悲しみを訪ねて歩く団体の紀行文としては、最適な本であった。観光ガイドには書いてない説明が詳細に書かれているし、「鉄血勤皇隊」や「白梅学徒隊」など知らなかった用語の説明も詳しくとても役立った。

戦跡、基地、産業、自然、先島など各方面の話が、7名の著者によって丁寧に書かれているので、沖縄修学旅行を企画している高校・大学の先生にぜひ読んで欲しい本です。

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261.「沖縄・高江やんばるで生きる」を読んで

写真:森住卓、解説:三上智恵共著の「沖縄・高江やんばるで生きる」(高文研発行)を読んだ。

沖縄の高江のテント村で購入したこの本は、この「やんばるの森」に囲まれ住んでいる人々の喜びや悲しみを、写真として切り取ってくれている。米軍の北部訓練場は、沖縄県国頭郡の国頭村(くにがみそん)と東村(ひがしそん)にまたがるアメリカ海兵隊の基地。1957年に米軍が接収し、米軍海兵隊の世界唯一のジャングル戦闘訓練場として使われており、ベトナム戦争時にはここにベトナム村が作られ、高江住民がベトナム人役として雇われ標的にされ、映画「標的の村」でも知られている。

オスプレイ基地反対の高江のたたかいと辺野古の海を荒らす辺野古新基地建設反対のたたかいの写真と記事も掲載されていて、沖縄の現状を教えてくれている。

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260.「活版印刷の話が聞きたい 斎藤喜徳編」を読んで

東條メリー著の「活版印刷の話が聞きたい 斎藤喜徳編」(アンダンティーノ発行)を読んだ。

先日の「お話し会inぼんとん」でお話をしてくれた東條メリーさんの本である。読もうとした切っ掛けは、やはり先日行った「埼玉AALA沖縄平和の旅」で訪れた琉球新報社の新聞博物館に、沖縄の戦争と基地闘争の歴史を伝える新聞などが所狭しと掲示されていた。どの掲示物も目から鱗のごとく感動して読ませてもらった。そしてそのそばに、活版印刷などの機器が展示されていたことによる。情報を正しく伝え、同時に住民の立場で闘う新聞社の手足になったであろう活版印刷機器に強く愛着を覚えたからだ。

この本は一人の活版印刷に命をかけて、大正から戦前戦後を歴史に翻弄されながら生き抜いてきた斎藤喜徳さんから話を聞く形を取っている。また、グーテンブルグ以来の欧文活版の書体や印刷方法を知る歴史の本としても価値があると思う。

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259.「古代末期の葛飾郡」を読んで

熊野正也編の「古代末期の葛飾郡」(崙書房)を読んだ。

この本も関宿城の売店で購入したものだ。なぜ、この種の本が関宿城にだけ売っているのかの疑問も解けた。つまり全てが平将門が活躍した下総国に関係しているからだ。

北から順に言うと、古河・五霞・幸手・杉戸・春日部・関宿・野田・流山・松戸・市川・船橋・葛飾区などである。上であげた場所は古代では下総国葛飾郡に所属していたようだ。守谷や柏は下総国相馬郡で、境や岩井は下総国猿島郡だった。これらの中心の下総国国府は市川にあった。すぐ近くの葛飾区とも交流があり、この本に見られる研究は「葛飾区郷土と天文の博物館」が中心に行われている。残念ながら葛飾区は低地のため古代の遺跡は少ないのに対して、市川や流山は官道に当たったため丘陵地に大量の遺跡が眠っており、その発掘により、葛飾区の古代が想像できるところからきているようだ。数回行われているフォーラムの記録用として発行された本である。なお、近世では葛飾区は武蔵国葛西領に編入されている。

主なものをあげると、①古代葛飾郡文献「高橋氏文(うじぶみ)」の話②将門の乱と内海(古東京湾と香取海)や官道(東海道の変遷)③蝦夷と牧場④葛飾郡の解体による太日川(現在の江戸川筋)沿いの下河辺庄と葛西郡⑤相馬御厨と葛西御厨(みくりや)などの他に遺跡から発掘された坏(つき)・壺・皿の形状分析や国分寺跡の台座の分析があります。

知人が住んでいる流山市三輪野山を訪ねたことがあるが、江戸川縁であるのにも関わらず坂道が多いので不思議に思ったことを思いだした。ここはもともと丘陵地で古代の国府を結ぶ官道が通っていた場所だった。下総国(国府は市川市)から北上し、この三輪野山で右折し、手賀沼より香取海に入り常陸国(国府は石岡市)に向かう道が考えられている。

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258.「明治維新という過ち」を読んで

原田伊織著の「明治維新という過ちー日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」(講談社)を読んだ。

この本を書店で手にとったのは、「安倍改憲NO!」と言う声がある中で、平然とアメリカに追随して軍備増強の道をとっているのかそのルーツはどこにあるのか疑問に思っていたからだ。安倍晋三個人の知恵とは思われない深い思想の流れがあるような気がしている。それは明治維新以来の長州勢力の台頭にあるのではないか?一緒に戦った薩摩や土佐などが埋没して行く中で、天下をとったのだから、「長州幕府」と言って良いだろう。

豊臣秀吉的な田中角栄や江戸幕府のほぼ天領に近かった上野国の群馬県出身の首相たちの方が、日本的な匂いがする。長州閥は、1000年に渡って築き上げてきた日本文化を壊し、江戸時代の政治システムをも壊し、攘夷のはずが180度転換して「西洋文化追随」となり、大陸への侵略戦争へと進んで行った訳を探るのに最適な本に出会ったと思う。

まず、日本文化(アジア的多元信仰の神仏習合)を「廃仏毀釈」で多くの廃寺を出し、日本文化が世界へ流出した。興福寺や東大寺や法隆寺に並ぶ4大寺院であった内山永久寺(天理市)が跡形もなく消えてしまったのはなぜか?僧兵などを持つ仏教勢力を弾圧し、西洋的(キリスト教一元主義)な神道一元化を目指したのだろうか?なお、興福寺は岡倉天心の努力により廃寺を免れている。

次に、江戸時代の政治システム(徳川家独裁でなく、各藩の才能のある藩主を政権のトップにすえる)をテロリズムで破壊した訳は?その根源にいた吉田松陰と水戸学の藤田東湖は、「相馬大作事件(「みちのく忠臣蔵」と呼ばれたテロ)」を必要に調査しており、その後の行動に影響を与えている。

武士道を貫く奥羽越列藩同盟に対して、醜悪な長州人(チンピラとして有名な「世良修蔵」)が奥羽鎮撫軍の参謀となった。この人物は粗暴を極め、道徳心がなく、欲望のまま酒と女に溺れるという行為に怒った仙台藩士が殺害した。それをきっかけに戊辰東北戦争が起こり、二本松藩と会津藩の多くが徹底抗戦したが、銃器の差により壊滅した。会津白虎隊と同様に二本松少年隊も全滅する。

司馬遼太郎著「竜馬がゆく」のもたらした影響も論評しているが、ここでは長くなるので書かない。是非一読して下さい。

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257.「平将門伝説ハンドブック」を読んで

村上春樹著の「平将門伝説ハンドブック」(公孫樹舎)を読んだ。

小説家の村上春樹と同姓同名の国文学者で、平将門研究で知られる村上春樹さん(関宿城博物館客員研究員)の本だが、これもまた関宿城休憩所の売店の本棚から見つけた私が大好きな本の一つである。

日本中に点在している平将門とその子孫、藤原秀郷、平貞盛、桔梗の前に関する神社仏閣・史跡などを訪ねて聞き取りをした資料が全部掲載されている。平将門研究をする人にとっては貴重な本と思える。

私は特に、幸手と杉戸と岩井(坂東市)に関連する項目に興味を持った。この本を片手に少しだけ訪ね歩こうと思っている。

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256.「海の鈴ーつる姫物語ー」を読んで

大山祇神社社務所発行の漫画「海の鈴ーつる姫物語ー」を読んだ。

和田竜著の「村上海賊の娘」に登場する景姫(きょう姫)のモデルとなった鶴姫(つる姫)の像が、大山祇神社の裏の川沿いの道にあったのを、前回(2009年)訪れた時に見ていたので、社務所で販売されていたのを見てすぐ購入した。

この本のおかげで、大山祇神社の宮司や河野水軍、三島水軍、そしてそれにつながる村上水軍の 歴史の基礎を知ることができた。漫画といえ馬鹿にはできないと思った。

宮司の大祝家や大三島陣代の祝家、伊予の守護の河野家、大三島を攻めた大内義隆や陶晴賢など毛利家が登場する前の瀬戸内の様子がよくわかった。

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255.「大山祇神社」を読んで

大山祇神社社務所発行の「大山祇神社」を読んだ。

先日訪れた瀬戸内海の芸予諸島の大三島にある大山祇神社は、古来からの瀬戸内海交通の要所にあり、その水軍(海賊)は、海上交通の安全を守ってきた。

この紫陽殿・国宝館に陳列されている国宝の写真集である。カメラ撮影は禁止なので、この本を購入したわけだが、詳細な資料があるので購入して良かった。

いくつか紹介すると、①斉明天皇御奉納の国宝「禽獣葡萄鏡」②河野通信奉納の国宝「鎧・兜・大袖付」③源義経奉納の国宝「鎧・大袖付」④源頼朝奉納の国宝「鎧・大袖付」⑤鶴姫の鎧⑥護良親王奉納の国宝「太刀」⑦大内義隆奉納の太刀⑧北条時宗奉納の太刀⑨伝武蔵坊弁慶奉納の薙刀⑩後醍醐天皇の綸旨などであるが、非常に大きな太刀なども多数展示されている。一見に値する国宝館である。

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254.「兵士のアイドル」を読んで

押田 信子著の「兵士のアイドル」(旬報社)を読んだ。

埼玉のパルコで開かれていた「平和のための埼玉の戦争展」で、この本を手に取った。帯に書かれていた原節子や高峰秀子や李香蘭などの名前に惹かれたのだ。この人たちの第二次世界大戦中の動向はあまり伝わってこない。女優をやっており、慰問団として戦地に行ったりしていたのかなぐらいだった。

この本に出会って、昭和13年から終戦までの間、多くの現地で苦しむ兵士たち一人一人に向けて月刊誌「戦線文庫」が発行されており、その紙面の多くを彼女たちが飾っていたということを知った。人を殺したり殺されたりしている最前線の兵士に向けて、心の慰みとしてこういう雑誌を送るという国策に怒りを覚えると同時に、こうでもしなければならなかった思想教育の愚かしさを感じた。

戦争ゆえに消された裏側を見る思いがすると同時に、これを発掘し本にした関係者の努力を讃えたい。

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253.「蜜蜂」を読んで

中 勘助著の「蜜蜂」(岩波文庫)を読んだ。

時々通る「浦和さくら草通り」(浦和駅西口からコルソを通って埼玉会館横に出る遊歩道)でたまに古本市をやっている。やっているときは必ず覗いて、何かしら古本を買うことにしている。今回は、目についた中勘助著の文庫本を購入した。

204番で読んだ「銀の匙」の作者である中勘助は、現代の我々にとっては灘中学の国語教師の橋本先生による授業「銀の匙」で有名だが、それ以外の著作についてはあまり知られていない。そういう興味からも購入してみた。

「銀の匙」をなぜ橋本先生は熱心に授業に取り上げるのかがわからなかったが、この「蜜蜂」とそれに続く「余生」と「解説」を読んで少しだけ見えてくるものがある。一つに、日記体随筆という文調を多く取っていることであり、二つ目に、自分自身とその家族についての「静かな流れ」の中に詩的に表現をしながらも一方封建的家父長制度たる「家」の問題を告発しているところにあるのではないかと思った。橋本先生は灘中生に「自分の身の回りを静かに冷静に観察し、詩的な心遣いを駆使して分析し、問題を発見し告発していける青年」を期待しているのではないかと勝手に解釈した。

ただ現在は、SNSに見られるように「過激な短絡的な駄文の反乱」のような体を示している気がする。とはいえ、中には時々美文に出会うこともある。

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252.「イタリア幻想曲 貴賓室の怪人II」を読んで

内田 康夫著の「イタリア幻想曲 貴賓室の怪人II」(講談社文庫)を読んだ。

いろいろ忙しいことがあったので、読書が後回しになってしまった。こういう時は、気軽に読める本に限る。本を読む習慣が戻ってくるからだ。

そこで、キーワードとして、有名な主人公「浅見光彦」、旅行で訪れて風景が想像できる場所「イタリアのトスカーナ地方」の2つを満足させることのできる本である「イタリア幻想曲 貴賓室の怪人II」を手に取った。

今は体力的にも金銭的にも行けなくなった海外旅行で、イタリアに行っておいて良かったと思っている。本を読むときに背景が広がって見えてくるからだ。この本は、ピサとフィレンツェの間にあるカッシアーナ・アルタという山村が舞台である。文中に出てくる垣根や教会や空の色などがカラフルに見えてくるから不思議だ。

豪華客船「飛鳥」の世界一周旅行の寄港地ツアーで立ち寄ったトスカーナの丘に聳える貴族の別荘をホテルに改造した宿「ヴィラ・オルシーニ」で事件は展開していく。ともかく楽しく読み終えることができた。

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251.「かたづの!」を読んで

中島 京子著の「かたづの!」(集英社)を読んだ。

135番の「南部は沈まず」(近衛龍春著)は、豊臣秀吉が天下統一する頃の南部信直や息子の南部利直が三戸から九戸に進出して、盛岡城にて南部藩を統一する話であるが、1611年に起こった慶長陸奥大地震への対応が優れていて感動した記憶がある。

この「かたづの!」は、その南部利直が統一する際に九戸南部氏(盛岡周辺、当時の最大勢力)を皆殺しにして三戸から進出し南部宗家となったとき、協力した八戸南部氏(傍流の波木井実長が祖先)の娘・祢々(ねね)の夫・直政と嫡男・久松が不慮の死(利直により殺害されたという噂あり)をとげる。そのあと、祢々は女性当主(女亭主)として、利直の策謀(自分の腹心を婿・当主に送り込み、八戸港と田名部(現在のむつ)の鉄を直接支配)を阻止すべく奮闘する。その際、心の拠り所になったのが、1本角の羚羊(れいよう、かもしか)の片角(かたづの)である。

祢々は利直の姪でもあったので、しばらくは平安に過ごすことができた。しかし、利直は、八戸南部氏に八戸を明け渡し、遠野への国替えすることを迫ってくる。八戸武士たちは死を覚悟して戦うことを主張するが、祢々は、利直の九戸南部氏皆殺しの教訓を元に、「かたづの」が乗り移った形相で、遠野へいくことを決意する。八戸の河童たちも一緒に遠野へ移動する。遠野南部氏として遠野物語の原点を築いていく。娘婿の直義が当主となり南部藩(南部宗家の三代家老として盛岡に在住し、遠野南部氏当主は明治維新まで続く)を盛り上げていく。

「羚羊のかたづの」がナレーターとして話が展開して行ったが、「南部は沈まず」の続編のような感じで、私としては楽しめた。

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